自分棚卸し

自分には、どんな能力があるのか。そのことを、真剣に見直してみることは少ない。人は、必ず存在しているだけの使命がある。本来、その使命は周囲の期待となって現れ、その期待に応えることで貢献し満たされていく。

その使命と期待とを繋ぎ合わせるのが、自分自身と向き合い、自尊心を養うところにある。そこには、誰にも真似ができないような能力が、誰にでもあるはずなのに、あまり活かせていない。それは、とても残念なことだ。

これは、人だけではなく企業などにもみえる。本来の能力や期待を感じ取れていないのだ。それは、自分で器を小さくしてしまうようなもの。もっと、価値を生み出せるのに限界を感じている。「勝手に」限界を感じている。

期待し、その能力を信じているのだから、勝手に限界を感じるのはやめてほしい。そう感じる根底には、信念不足がある。そのことに執念や熱意が足りないのだ。能力の限界を感じるから信念が足りないのか。そんな議論は、どちらでも構わない。

問題は、能力の限界ではなく、信念の欠如にある。自分の活動にエネルギーを感じていないなら、自分の本来を能力に気付いていない証拠。やっていることの成否よりも、まず、自分の活動の源を探る必要がある。

そのヒントは、必ず周囲の人との、ふれあいや会話の中から気付かされる。その気付きを素直に受け止めてみること。成長する人に、素直さや謙虚さが必要な理由だ。エネルギーを感じられる活動に気付いたら、自信を持って、そのエネルギーを強くしてみる。

それは、周囲の人たちから感謝や感動など、良い反応となって返ってくるだろう。自分の過去の経験や得意な事、好きな事。とにかく、棚卸しをしてみよう。その中で、人の役に立てたり、人を助けたりできることはなんだろうか。能力に限界はない。

いつも足りないのは、信念だ。勝手に限界を感じるのはやめて、本当の自分の大きさを感じ取ってみよう。

らせん

同じ地球上にいながら、そして、同じ時を過ごしながら違う場所にいる。「類は、友を呼ぶ」この言葉は、その状態を、簡潔に、かつ的確に表現したものであろう。人間の社会には、年齢の違いや、仕事の違い、地位役職の違いなど、様々な「違い」がある。

そして、その「違い」に優越感を感じたり、そして、時に劣等感を感じたりすることもあるだろう。しかし、人間の本質を語る場合に、それらの「違い」は、決して「違い」ではない。精神レベルという概念がある。

人を憎んでいたり、悪事を働こうとする精神レベルと、いつも明るく、すべてに優しい人の精神レベルは違う。それは、お金のあるなしや地位のあるなしは関係なく、その同じ精神レベルを持った人同士は引き付けあう。これが、「類は友を呼ぶ」の本質だ。

他人の失敗を望んだり、足を引っ張ろうとする人がいる。他人の悪口ばかりいったり、愚痴ばかり話す人がいる。自分の精神レベルは、同等だろうか。そうではないならば、同じレベルに降りていく必要はない。黙って席を外せばいいし、相手にする必要もない。

もし、自分の周りにそういった人たちが集まる傾向があるなら、自分の状態が良くない状態であることのメッセージだ。まずやることは、笑顔を取り戻すこと。明るく、前向きに、感謝の気持ちを思い出すこと。

そして、まず一番身近な人たちとの接し方を見直してみる。家族や恋人を、冷たくあしらってはいないか。「挨拶」や「ありがとう」という言葉を忘れてはいないか。精神レベルの螺旋(らせん)階段を登っていくと、その段階ごとに出会う人も変わってくるという。

人生の目的は、その螺旋階段を1段でも上に登ること。そのための気付きを得るためのイベントが逆境であり苦悩だ。誇るべきは、持っているお金の量や、人間によって作られた地位や名誉ではない。誇るべきは、自分の精神レベル。

誰も見ていないところでの振る舞い。人知れず表す感謝の気持ち。そうしたことに幸せを感じることができるならば、もはや怖いものなど何もないといえるだろう。

はじまり

目標設定を実際に行っている人たちは、全体のわずか3%だという。そして、望みどおりの人生をおくれている人も、また、全体の3%程度だという。この二つの数字に関連性が全くないといえるだろうか。

人生の中で起こる出来事は、ジグソーパズルのピースのようなものだという。どんなにつまらないピースであったとしても、それが欠けてしまっては期待する図は完成しない。

そして、目標設定を行わないで過ごすのは、ジグソーパズルの完成図を見ないでやるようなもの。完成図が何かを知らないで、出来事のピースだけを眺めても気付きは少ない。目標設定は、それほどまでに重要なことだ。それを行うだけで、上位3%に入ることができる。

目標設定を行うためのポイントは5つ。1.実現したいことを挙げる2.具体的な期限や数値で示す3.達成したときのイメージを具体的に描く4.自力で達成できる目標である5.周囲や他人に恩恵をもたらすことであるやりたくないことばかりを挙げることは、やりたくないことを実現することになる。具体的な目標やイメージを描くことは、行動を起こす燃料のようなもの。

自力ではなく、他人に依存することは、責任を取らないと宣言しているようなもの。恩恵をもたらせば、それは必ず返ってくる。実現を加速する最大の秘訣。目標は、一度立てたら終わりではない。状況が変わるように変化しても構わない。

しかし、大きなビジョンはブレないようにしよう。遠くの一点を目指す道は無数にあっても、目指すべき、目標は一点に絞る。はじまりは、そこにある。

思考の掃除

年末になれば、大掃除をする。掃除というのは、とても有益なことで、見た目だけではなく、気持ちまできれいにしてくれる。そこで、掃除が一段落した後で、もうひとつやっておきたいことがある。それは、「思考の掃除」。

タスクリストを作っているか否かに係わらず、この一年間、様々なタスクを計画し実行してきただろう。そのタスクの中で、遣り残したことが、一体、どれくらいあるだろうか。遣り残したことがどれだけあるかは重要ではない。

今日、やっておきたいのは、その遣り残しの「掃除」だ。まずは、どんな些細なことでも、遣り残したことをすべて書き出してみる。旧友への連絡、買ったままの本、借金の返済、ファイルの整理、棚の修理、などなど。そのリストには、重要なものからそうでないもの、すぐに出来ることと時間がかかるもの色々あるだろう。

自分の人生にとってさほど重要でないこと、やるやらないより、そもそも辞めてしまうこと。まずは、そういった捨ててしまうタスクを選び出す。この本は、読むに値するだろうか。そうではないと感じるならば、読むタスクを捨てる。

棚の修理も、棚をなくしてしまったら、何が不都合が生じるだろうか。または、別の選択肢はないだろうか。そうやって絞り込んだタスクについて、次は、来年の手帳に予定を書き込んでいく。予定として書き出すと、頭の思考回路から一旦解放される。

つまり、予定として、書き込んだ時点で、頭の中では、「しかかり中」だったものが、「終了」する。ここで、予定を書き込めたものは、おそらく短期的に解決できるものばかりだろう。思考回路の中に常駐するべきものは、長期的、かつ重要な事案だけに留める。

これが、思考の掃除。やるべき目標を明確にして、頭をすっきりさせよう。そして、新しい年を笑顔で迎え入れよう。

深呼吸

どんなにお金持ちでも、地位の高い人でも、無ければ必ず死んでしまうものがある。すべての生物に共通して必要なもの。それが、「酸素」であり、「呼吸」だ。しかし、誰も酸素がなくなることを心配しないし、酸素を体内に取り入れることに力は注がない。

当たり前で当然のように、それは行われる。もし、それを一日のうちに数回意識して行ったとする。ゆっくり吸って吐くという深呼吸。酸素は、リンパの流れを良くして老廃物の排出を促す。それは、身体にとって最高のプレゼントになるだろう。

呼吸と同じように、本当は、とても大切なことであるのに、全く意識を持って行われないことは、意外と多い。人生を充実させるために必要なことは、他人との係わりであり、前向きな人間関係だ。それを、否定する人は、おそらくいないだろう。

しかし、そのために「何か」をしているだろうか。人と人とのコミュニケーションは、人間関係における呼吸のようなもの。何もしなくとも、それはそれなりに流れていく。本当は、とても大切なことなのに大半を流れにまかせる。

自分にとって、大切な関係には、自ら大きく深呼吸をしてみることも必要だ。多くの「酸素」を取り入れ、お互いを知り、関係を阻害する要素を防ぎ、取り除く。どこにでも、当たり前のように、そこにある人とのコミュニケーション。

失えば死んでしまうほど辛いのに、何も行動を起こしていないことはないだろうか。何も難しいことはひとつもない。ただ、いつもより意識して「呼吸」してみるだけだ。

「酸素」の大切さを再認識したら、大きく息を吸って、深呼吸をしてみよう。自然と「流れ」は良くなっていくだろう。

落ちたら飛べばいい

ポジティブシンキング全盛の時代。これは、とても大切なことだが、この本当の意味を理解している人は少ない。いいことを考えていれば、いいことが起こる。こんな都合のいい話は当然ない。

もちろん、ネガティブ思考よりましだとはいえる。いいことばかりを考えても、結果が伴わないのは、その本当の意味を理解していないからだ。本当の意味は、「自己の浄化」にある。イライラすることに、対して前向きに笑顔で迎える。

自分のためではなく、誰かのために出来ることをする。こうした行為は、自分を浄化してくれる。そして、自然とよいことや助けを引き寄せてくれる。それには、もちろん行動が伴うこと。「ポジティブに行動する」とは、こういうことだ。

決して、自分の夢に向かって万進するために、その実現だけをポジティブに考えることではない。そして、もうひとつ大事なことは、失敗のイメージに固執しないことだ。しかし、ただの楽観主義ではあぶない。失敗を想定しつつも、それに支配されないこと。

失敗したら、またやればいい。そう考えておくだけでいい。「電線の鳥がなぜ落ちないか?」そんな問いかけがあった。その答えは、こうだ。「落ちたら、飛べばいいと思っているからだ」落ちたら飛べばいい。失敗したら、またやればいい。

本当の失敗とは、諦めたとき。諦めない限り、失敗は成功へ近づいた証にすぎない。

知恵を使う

知恵を使う。この必要性は十分に理解されているが、それを実際に行っている人は少ない。その理由のひとつは、「知恵の使い方」を知らないことにあるように感じる。所詮、人間は、自分の知っていることの範疇でしか、物事を思考し、考え出すことはできない。

だから、学習を行うことは基本だ。学習とは、他人の経験を学ぶことが基本。すべての学問は、過去の賢人たちの成果だ。知恵を使うということのひとつは、過去の賢人たちの成果を積極的に学ぶことにある。

そして、知恵を使うための、もうひとつのコツは、「考え方の指向性」を変えること。多くの人は、自分の見聞きしてきた事柄で、その全体像を知っているかのように錯覚する。たとえば、広告を作れといわれれば、自分が見てきた広告をイメージして作ろうとする。

その広告がどういった背景や検討の末に、生まれ出たのかを知らないままに実現しようとする。出来たものは、それなりに見えたとしても、その全体像を理解して取り組むところには勝てない。

「一般的にはこうだから、こうした」これでは、知恵を使っていることにはならない。考え方の指向性を相手側に置くだけで、その視点が変わって、別の考えや理由が生まれる。「知恵を使う」基本は、2つ。過去の賢人たちから積極的に学ぶこと。

考え方の指向性を変えてみること。変化と混乱の時代。「知恵」を使うものが、評価される「本物」の時代。「知恵」を存分に使って乗り切りたいと思う。

神の業(わざ)

自我(エゴ)と競争と繁栄。ひとつの時代を象徴するかのような言葉。過度な成果主義と競争社会は、時に、無機質で幻想的な繁栄を作り出してしまった。食品偽装問題やマネーゲームの成れの果て。社会は、多くの「学び」を得ることとなった。

自然と協調と公平。人にとっての「豊かさ」や「幸せ」に気付く。人生が、1日1日の積み重ねで築かれるように、社会は、一人一人の人間の集合によって築かれている。よい会社、社会を作るためにすることは、今、まさに目の前にいる人との関係を築くこと。

「私も、世界の平和に貢献したいのですが」こう質問されたマザー・テレサは、こう応えた。「あなたの家族の平和を保ちなさい」すべての人には、感情があり思いがある。だから、人は、「管理」することでは動かない。

感情どうしが触れ合うことに躊躇することはある。そこに、卑下される恐怖を感じることもある。でも、実際には何も心配する必要はない。多くの人は、人の失敗など、さほど興味はない。自分の「過ち」を感じるならば、それは、「成長の証」だということだ。

人生の目的は、「何を得るか」ではなく、「どういう人間になるのか」であるという。そのためには、経験を積むことしかない。そして、経験とは、周囲との係わりの中で生まれる。過ちは、人の常。許すは、神の業。神様を信じてみてもいいときがある。

定点観測

強いものは、常にシンプルだ。複雑であればあるほど、様々な接点も増える。そして、接点は、故障やトラブルを引き起こす要因となる。単純で、しっかりと作られたものは、接点が少ないが故に、故障も少なく強い。

この考え方は、モノにだけではなく、活動においても適用出来る考え方だ。何か、大きな事や大きな成果を引き出すには、何か特別なことや難しいことが必要ではないかと考える。しかし、実際にはそんなことはない。

単純でシンプルな活動から得られるものは大きい。そして、シンプルな活動の強さを知っている人も、また、成果を導き出す強い力を持っている。何かすごい結果を出す秘訣やテクニック。誰にもマネができないようなスキル。

何かあるのではないかと探し続けることは、海の上で、目的が定まらず漂流姿に近い。目的を定めたら、オールをまわすだけ。その活動が、目的に確実に近づけてくれる。本当に成功する人は、誰にでもできることを確実にやる。

そして、成功できない人は、誰にもできないことをやろうとする。たとえば、定点観測。ただ、同じポイントで測定を続けるのみ。しかし、このデータの積み重ねは、想像以上の価値と成果をもたらしてくれる。

今どうなのか、過去どうであったかだけではなく、未来を予測するための知恵をも与えてくれる。長い期間の定点観測と活動の結果を重ね合わせ、そこから導きだされる知恵は、簡単にはマネはできない。

たとえ、同じ活動をしていたとしても、裏づけが異なる活動は、必ず結果にも現れてくる。シンプルさは、力だ。特別な何かを探し出そうとする前に、今すでにある、シンプルな方法に目を向けよう。継続も、また力なのだから。

処世術

「いつも、考えていますか?」という質問に、今の自分は、どう応えるだろうか。おそらく、多くの人は「はい」と応えるだろう。それは、嘘ではないし、間違いでもない。ただ、その「考えている」深さや広さは、人によって、様々であることは当然のこと。

「考える」ということは、想像以上に体力や精神力を使う。だから、人は、なるべく考えないで事を成したいと思う。新しいビジネスモデルを考えることよりも、すでにあるモデルを真似る方が早いし楽だ。

新しい営業先を開拓することよりも、既存の顧客の対応をしている方が早いし楽だ。いわゆる、こうした安心領域を抜け出すことは、リスクもあるし、決して楽で楽しいことではない。

ただ、間違いなくいえることは、社会情勢や経済状況は、急速に変化しているということ。わずか10数年前に昨今のような、インターネットや携帯電話の普及が想像できただろうか。終身雇用制の崩壊、停滞する経済状況。

銀行や証券会社が倒産することが想像できただろうか。人間の価値観自体も変化している。成果主義や価格競争の成れの果て。その傾向として、今まで隠されていた膿が噴出している。

この変化の中にあって、どうして自分だけが、過去の遺産の中で生きていくことが可能だといえるのか。現状維持は、後退することを意味する。後退を食い止める方法は、考えることしかない。「考える」とは、新しい見方や考え方を身に付けること。

たとえ、多くの情報を得たとしても、新しい考え方でなければ、得るものは少ない。確実に失敗するための方法が2つあるという。ひとつは、考えないで、行動すること。もうひとつは、考えても、行動しないこと。

新しい考え方を培う。そのための学習や経験。それが、現代サバイバルの処世術といえるだろう。