コンセプトの時代

主導権が供給者側や生産者側にあった時代。その時代において、需要者や消費者は、そこにあるもの意外の選択の余地は乏しかった。この事象の背景には、「情報の偏り」があった。つまり、供給者側の方が圧倒的に、情報量や質において勝っていた。

黙って言うことを聴く方が正しいと感じていた。しかし、現代においては、それが逆転している。不勉強な供給者は、勉強熱心な需要者に負ける。需要者は、簡単にアクセスできる情報を元に、本当に自分とって重要な情報を得ることができる。

いくら供給者が、それらしく語ったとしても、その「ごまかし」は、いずれ簡単に見破られる。供給者にとって、そんな時代だからこそ、その「モノ」よりも、コンセプトの重要性が増してくる。商品の必要性や重要性を改めてかたる必要はない。

受け取る側は、すでに充分な情報や知識を持っている。もしくは、欲しければ簡単にアクセスすることができる。その程度のことで、心は動かされはしないだろう。ニーズを感じたとしても、ウォンツにはならない。そのあと一歩を生み出させるのは、コンセプト。

それは、背景や物語といっても良いだろう。同じ人形であっても、製作者の顔が見え、その情熱や思いが語られれば、価値は高まる。なぜならば、外見は真似できたとしても、その「価値」は、誰にも真似はできない。

いい商品を作ることも大切だが、それ以上に、コンセプトを「伝えること」の方が重要。間違ってはいけないのは、ここでいうコンセプトとは、商品の「仕様」や「特徴」ではないということだ。

このアプローチにこそが、「企画」があり、アイデアの発揮できるところでもある。今までにないモノを創り出そうとすることは、ほとんどの場合、徒労に終わってしまう。新しいものを創り出すのではなく、古いものを自分なりに完成させる方へ動く。

となりの美しい芝生を羨んだり、どこにも存在しない楽園を追い求めるのはやめよう。足元にあるコンセプトを見つめなおす。そこに、かけがえのない大きな宝が埋まっている。

「思い」

目に見えないものは信じない。そういったものは、非科学的で信用ならない。こうした意見には、過信が垣間見える。心霊とか超能力とか、そういった話ではない。ただ、「感じ取れる何か」があることは確かだ。第一印象で感じ取れる根拠は何か。

合う合わないの基準は何か。今、頭の中で思い描いた顔。証明できないことは真実でないとしたら、頭の中に思い描いたことは真実ではない?視界に入ってくる情報量は莫大だが、脳は、その中で必要なものだけを意識する。

意識されなかった情報も記憶され、それが何かの拍子に結びついて現れる。虫の知らせや、直感といった類だ。いけそうとか、ダメそうとかいう感覚。なぜか、そういったことが当たってしまう現実。病は気から。気の持ちようで、免疫力は変化する。

目には見えない紫外線の存在と影響。危険を感知する動物達の能力。目には見えないことや科学で証明できないものは、単に、まだ人間の英知が辿り着いていないだけかもしれない。オーラが云々とか、前世がどうとかいうつもりはない。

ただ、目には見えない何かが影響していることは確か。自分を起点とした、目には見えない力。その影響力を踏まえれば、結果も変えられる。強く語れば、強くなる。信じれば、現実になる。「思い」という力は、決して侮れない。

ここ数年来、もっとも変化したことといえば、「大勢の行く末は、想定できない」ということだろう。一昔前でいえば、終身雇用制度のもと、いい学校を出て、いい会社に入れば安泰だった。

しかし、バブル崩壊後、証券会社の倒産や、銀行の統廃合などをはじめ、想定外の出来事が続いた。倒産するはずはないだろうと思われていた会社も、あれよあれよというまに倒産してしまう。

それと同時に、インターネットの普及によって、価値の多様化が、すさまじく進行してきた。それは、テレビの視聴率の低下をすすめ、、ミリオンセラーを生み出すことが困難となった。

一方で、ロングテールという現象が生まれ、ニッチな分野が熱く語られる傾向を創り出した。消費者側の裁量に市場が動かされる市場。ニッチでコアな積み上げで現れる市場。この大勢の動きを誰が予測できただろうか。

そして、この変化は、おそらく今後も継続していくだろう。今の経済状態は、「落ち込んでいる」のではない。なぜならば、元の姿に戻ることはないからだ。経済状態は、新しい枠組みに生まれ変わる。

いや、今まさに生まれ変わりつつある状態にある。そして、好景気は、新しい枠組みの結果として現れる。その新しい形に対処するために、どうあるべきか。その答えのひとつが、「個性」にあると考えている。

どうなるか見えていない状態で、確実な方法など判るはずもない。しかし、少なくともいえることがある。「個性」が生み出す価値観こそが、まだ見えぬ新しい枠組みに対応できるということ。

周囲や大勢に流される時代はすでに終わった。自分の個性と価値観を高らかに表現してこそ、次に進むべき道が見えてくる時代。その時代に在ることを、嘆くのか迎え入れるのか。

やり方次第では、とても面白い時。今、このときを存分に楽しもうではないか。

「礼」

武士道にある「礼」。相手を思いやり敬う心。この「礼」の精神や本質は、おそらく、日本人独特のものだろう。たとえ、相手との勝負であっても、今、自分と対峙する立場にあること。決まりごとだからではなく、自分のためではなく、純粋に相手を思い敬う。

独立総合研究所の青山繁晴氏は、これこそが、日本が世界に誇れることであり凌駕することだと語る。対価をもらうことだけに対するサービス。その枠組みを超えて、相手に礼を尽くすこと。

そこに、「何の意味があるのか」とは思わない。海外企業が、無意味だと感じているところが穴。この豊かな時代、本当に無意味なことだけを、求める人など、ほんのわずかしかいない。車など走ればいい。服は着れればいい。

食べ物は、空腹を満たせば良い。そう考えれば、それ以外のことはすべて無意味。しかし、現実には多くの人たちは、本当は無意味なことに価値を見出して対価を払う。日本人の「礼」の精神は、一見、無意味であって大きな価値がある。

武士道にある「礼」や「義」、「仁」など、こうした精神こそが、世界を牽引する。いや、牽引するべきだ。この精神は、言葉を替え、多くが現代の成功哲学に通じるところがある。何も難しいことや新しいことばかりに、焦り、心を奪われる必要などない。

日本人、本来の精神に立ち返る。それが、何よりも勝るといっていい。

アベイラビティ・バイアス

殺人と自殺者のどちらが多いか。アメリカでこの質問をしたとき、殺人と答える人が、圧倒的に多いらしい。しかし、実際には、自殺者の方が50%も多い。なぜ、こういった結果になるかということには、人の脳と情報処理の関連性に理由がある。

人は、自分の記憶や情報と関連付けやすいことを、実際のことよりも、頻繁だと捉える傾向にあるという。これを、アベイラビティ・バイアスというらしい。この内容を著した著者は、このことに対して、だから、「直感はあてにならない」といっている。

この場合の判断を直感と呼ぶできではないと感じるが、固定観念がもたらす、一次的判断を直感と呼ぶならそうだろう。クリエイティブであるために、「常識を疑え」というフレーズがよく使われる。

アベイラビティ・バイアスを考慮してみれば、「常識」とは、まずは自分の固定観念であることがわかる。自分の記憶や情報に関連付けやすいこと。それが正しいことだと認識してしまうこと。自分自身をはじめとする人というのは、そういうものだと理解することだ。

ビジネスでもスポーツ、趣味の世界でも、まずは、自分の常識を超えられるかどうか。ステップアップのためには、そこが第一関門となる。アベイラビティ・バイアスに、まんまと乗せられるな。

物語をつける

物語というのは、人を魅了する。ブームを巻き起こすものは、それと同時に物語性を備えている。ドラマの主題歌は、ヒット曲になりやすいし、マンガのキャラクターは感情移入しやすい。キャラクターの周囲の物語が個性を与え、個性によって、好き嫌いが明確になる。

つまり、そこにファンが生まれてくる。そして、コアなファンが増えれば、同じようにアンチ(非ファン)も増える。人は、それを物語を通してみている。物語というのはは、ただのモノを、「特別なモノ」にするチカラを持っているといえる。

自分が何かをプレゼンするとき、それがたとえ何であろうと物語を考えてみる。そして、どんな物語を語れば、より共感を得ることができるかを考える。共感とは、すべての場合に対応する必要はない。逆に、絞り込むイメージにした方がいい。

こういう状態のこういうタイプをターゲットにする。ならば、こういった物語が適切だろう、となる。自分のターゲットは、どんな状態にあるか?そして、自分のアプローチは何を物語るか?

それは、自分のアプローチをより具体的に、魅力的にしてくれるものとなるだろう。そして、物語が与えたリアルに思わずヒットしてくるだろう。

処世術

今、起きていることの本質を見ないで、その事象にだけに反応する人たちがいる。上司が、ある資料を見て何かいったとする。しかし、上司は資料全部を見たわけではなく、ある一部分をみて何かをいったとする。

それは、実際のところは、その部分からの印象を述べたに過ぎないかもしれない。つまり、ホンネのところをいえば、「こういうところが気になるからチェックしなさい」。

しかし、受け取る側が、それに「反応」すると、「指摘された部分を直さないといけない」となる。上司の意図は、その部分にはないから、出来上がったものがやっぱりズレている。

人というの、自分の価値観や感性を前提にするから、同じ言葉でも受け取る人によって感じ方は違う。このことを意識しておかなければ、ただ他人の言葉に「反応」するだけで振り回される。

本当に必要なのは、資料を直すことではなく、上司にもっと説明することなのかもしれない。ほとんどの生き物が「反応」することに対して、人間は、感情を持って考えることができる唯一の生き物。

目の前に起こった事象に対して、「反応」するまえに、「考える」クセをつける。うまくいけば、「よくわかるヤツ」ということになる。余計なやりとりも省略されるから、もちろん、成果までの効率も格段に上がる。

思わず「反応」しかけた自分に気付いたら、こう心でつぶやいて、自制してみよう。「俺は、虫じゃないだろう。ただ、物事に反応するだけの虫じゃない」ちょっと立ち止まって、相手の側で考える。これは、とても有効な処世術のひとつだ。

冬という季節

季節を読み上げると、こうなる。「春、夏、秋、冬」これは、季節というものが、春から始まることを示しているのではない。実際には、季節は冬から始まる。収穫を終えた秋。次の収穫に向けた、土作りや種まき。どんな土壌を作るか、どんな種をまくか。

それによって、次の秋の収穫物は変わる。人生というものを季節と置き換えるなら、人生の中にも冬の季節という時期はある。1季節を3年周期で考えれば、1シーズン12年。自分の過去の人生を振り返ってみれば、3年ごとの季節に区切ることができるだろう。

今、自分がどの季節にいて、何をどう享受できているか。それが理解できれば、今やること次にやることも見える。特に、冬という季節にいるならば、ワクワクしていい。これから新しい12年が始まろうとしている。

そして、それを方向付ける土作りと種まきが始まる。幸運など降って湧いてくるものではない。自分がどんな準備をし、種をまいてきたか。植物や動物、魚に至るまで、その生き物の1年の行動の起点は冬にある。冬という季節は、本当に奥深い。

個性

自分のこだわりや、気になること。他人から見れば、どうでもいいこともある。ときには、迷惑がられることもあるだろう。それを指摘されたり、気付いたりしたとき、落ち込んでしまうこともあるかもしれない。

しかし、むしろそこでは、もっと掘り下げるべき。他人は気にならないけど、自分は気になる部分。そこには、完全に「個性」が現れている。その個性の「出所」に着目することで、そのこだわりを活かす部分に気付くこともある。

「神は、細部に宿る」ある西欧の建築家は、こう表現した。他人には気にならない、どうでもいい部分。その細部にこそ、神は宿るという。作品のすばらしさは説明できないもの。その説明できないすばらしさは、細部のこだわりが醸し出すことだといえる。

自分だけの観点に気付いたとき、「自分は、変わっている」と終わらせないことだ。その「こだわり」を開花させた先に神は宿る。そして、それが人々を感動させるものに形作られていく。「個性的」でありたくない人などいない。

他人との違いは、すべて「個性」だ。「一般常識的に」良いもの悪いものも、いってみれば、すべて「個性」なのだ。

もう一歩踏み込む

新しい車が欲しい。新しいスーツやカバンが欲しい。そういった思いが出てきたとき、まず、頭に思い浮かぶことはなんだろうか。「お金がない」そして、だから考えても仕方ないと思い、お金が出来てから考えようと思ったりする。

大きな夢を実現できるかどうかは、実は、こういった些細な日常によるところが大きい。今、お金がないことを無理な理由として前提にする。このこと自体が、固定観念による弊害だ。確かに、毎月決まった給料しか収入はないかもしれない。

しかし、今手に出来るお金だけだ欲しいものをえる手段ではない。大切なことは、「無理」という感情を無視して、それをより具体的にするための行動をとる。欲しいと思っていることも、実は詳細を知らないことは多い。

コーチのカバンといったところで、種類は山ほどある。車には、グレードもあればオプションもある。今、自分が欲しいものは何なのか。自分には、どんなものが必要なのか。「お金がない」と横にやる前に、まず一歩踏み込んでみる。

すると、見えなかったいろいろなことが見えてくる。見えてくれば、何がどれだけ必要かも判る。現状とのギャップも明確になる。そして、それを解決する手段も、具体化してくる。無理だと思う前に、欲しいものを具体的にする。

この思考法は、事の大小に係わらずに大切なこと。そこまでの道のりが見える必要はない。ただ、ゴールが明確になれば、それでいい。脳は、物の価値の大小を気にしない。欲しいか欲しくないか、ただそれだけだ。

「些細なこと」と考えず、小さなことも大きなことも、同じように一歩踏み込むクセをつけるようにする。それでうまくいくことに気付けば、諦めることに意味がないと判ってくる。

欲しいものを手に入れるとかどうとかというより、それは、人生を楽しく過ごすための秘訣のようなものだ。