自分発の選択

なんとなくうまくやっている人たちがいる。しかし、その”うまくやっている人たち”の中には、大きく2種類の人がいると考えられる。一方は、自分の意思を着実に表明し実行する人たち。

そして、もう一方は、”うまくこなす”人たち。うまくこなす人たちは、ある意味で不幸な人たちでもある。ある程度の能力も備わっているが故に、周囲からの期待には、それなりに応えることができる。

周囲からも仕事が出来る人と見られている場合も少なくない。そして、その応えている自分も、そこそこ理解し、”うまくやっている”という認識を持っている。しかし、実際には、”やりたいことができていない”。

本当は、やりたくないことも出来てしまうから性質が悪いのだ。企業戦士や仕事人間には、このタイプが多いという。このタイプは、企業側としては実に都合がいい。よく働き成果も出してくれる。

一方で、本人はストレスで身体を蝕んでいく。自分が、そこそこ仕事が出来ていると感じているならば、”意思ある選択”をしているか、”こなしている”だけかを見る必要がある。

”好きなこと”と”得意なこと”とが違うように、”意思ある行動をする”ことと、”うまくこなす”こととは違う。本当に充実した毎日を送るならば、得意なことよりも好きなこと、こなすことよりも意思ある選択。

周囲からの影響に伴う押し流されるような行動の連続ではなく、”自分発の選択”で行動するようにしよう。”自分発の選択”で行動することを始めれば、すべての選択権は、自分にあると気付くことができるだろう。

自分を知る

自分でビジネスをやり始めてから、改めて気付かされたことがある。ビジネスを行う意義のようなもの。それは、サラリーマンの頃には気付けなかった。

はじめは、成功を夢見て、自由な暮らしや資産を築くことを願う。しかし、様々な問題や課題に出会うごとに、そのうちに、そういった動機の儚さを知る。

ビジネスの意義を感じることなく、取り組みを続けても、本当の意味での解決の糸口はつかめない。ビジネスや仕事の意義は、「自分を知る」ことにある。

やりたいことやできること、そして期待。そういったものが混ざり合って理想像を作り出す。しかし、その像は、本当の自分ではない。エゴが中心の活動に、本当の力はない。

自他共に幸せの中にある本当の自分とは、社会の期待と自分の動機が一致するところにある。ビジネスは、自分を映し出す鏡だ。こう表現した人がいる。ビジネスとは、自分を知ることである。

自分を知るには、社会や他人との係わりが必要。インターネット社会であるとはいえ、その係わりは無視できない。仕事とは、社会との係わりであり、これは、自分でビジネスを起こしていない人も同じ。

ただ、自分でやれば、それに気付くのが早い。嫌でも気付かされるといっていいかもしれない。自分のことをよく知り得た人の成功は保障される。自分自身の理解度が成功の確度を決めるからだ。

それは、ひとりで考えて得られるものではない。自分探しの一人旅に出る前に、社会との係わりを増やすことだ。周囲の人達や状況は、自分を映す鏡。それを感じ取ろうとする心構えが自分探しには必要だ。

ビジネスを立ち上げた当初は、その理想とのギャップに苦しめられるだろう。それは、「自分を知る」プロセスの準備だ。その法則に気付き始めると苦しさからは解放される。

そして、オリジナリティというのも、その自分を知るプロセスの中で培われるもの。自分を知るためのイベントは、常に、自分の目の前に起こっているのだ。ひとつでも多くそれに気付いていきたいと願う。

独自性-書店において・・・

大型書店にいくと、いつも、「何だかなぁ」と感じることがある。欲しい本が抽象的観点で探せない。「抽象的観点」とは、読みたい本が漠然としているときなど。

たとえば、興味のある著者はいるが、特定の本がない場合。そうした場合などは、まずは著者名で一度に見たい。それから、感覚的に求めている作品を選びたい。

その点において、大型書店に見られる傾向として、書籍が、出版社ごとに陳列されている。果たして、出版社を検索キーとして、本を探す人は、どれくらいいるだろうか。

ある著者の作品を探す場合でも、出版社ごとの棚を探さなければならない。その上、その著者の作品を出している出版社を知っていればいいが、そうでない場合は、見逃してしまう本も出てくるだろう。

だから、本を探すなら、むしろ図書館の方が楽しく本を探せる。関連のある著作をテーマごとに探すことが出来る。関連づいた作品を見せることは、購買意欲をそそる。

その点をカバーしたアマゾンは「この本を買った人は・・」で表示している。セールスの観点からしてみても、大型書店の陳列における機会損失は、決して少なくないだろう。

そもそも、出版社ごとの陳列は、書店や出版社都合でしかない。その売り手側都合の陳列が何の疑問もなくなされている。書籍の電子化やネット販売が台頭する昨今、そういった中でも、人気をはくしている書店があるという。

その書店は、ジャンルやテーマに特化した陳列を行っている。例えば、石原裕次郎のコーナーには、写真集やCDの他に、石原慎太郎の著作もある。裕次郎に興味がある人の興味を刺激する陳列となっているから、客は、本来の目的以外の発見をすることができる。

その発見の楽しさは、ネットではなくリアルだからこそ。そうした陳列には、センスもいれば手間もかかる。だからこそ、独特の楽しさを演出できるし簡単に真似もできない。書店のテーマパーク化。

ネットでないからこそ、大型書店でないからこそできること。これからの社会、独自性が大切というが、独自性とは、こうした一味を加えられるかどうかなのだろう。

アリの視点

アリが進む先に水溜りがある。上から眺める人は、そのアリの行く先に何があるか知っている。しかし、アリには分からない。

その水溜りに直面しなければ分からないし、その先、右が良いのか左が良いのかも分からない。アインシュタインは、こう言った。「いかなる問題も、それが発生したのと同じ次元で解決することはできない」

アリの持たない高さという次元を持つ人だからこそ、そのアリの抱える問題を簡単に解決することが出来る。そして、我々は、時間軸における問題を抱える。将来が不安となり問題となることは少なくない。

しかし、我々は、時間軸の先を見ることができない。つまり、現在の我々にとってみれば、時間軸における、物事の良し悪しは本当は分からない。この次元に生きる以上、分かりようがないのだ。

世の中の本当の仕組みの意義は、そこにあると感じる。つまり、現時点のいかなる判断も、最適とは限らない。そして、どんな状況であっても、最悪とは限らない。

必要以上に悩み考えることは、アリが、この先に何があるのか不安になることと同じ。いきなり自転車が通り過ぎることや、予期せぬご馳走にありつけることなど分かるはずはない。

それを予知できないと嘆いても、仕方ない。不安がらず、期待しすぎず。しずぎたところで、結局のところ意味などないのだ。

○○的

永い間、いろいろなものを見てくると、○○的というモノの見方が、身についてくる。たとえば、リンゴを描いてみれば、いつかどこかで見た「絵に描かれたリンゴ」を描いてしまう。

小説を書いてみれば、いつか読んだ「小説的」表現を書く。こうした行動の根拠になっているのは、「こういうものだ」という観念によってもたらされる。特に、芸術の分野には、その傾向が顕著になる。

絵とはこういうもの、小説とはこういうもの、ロックとはこういうもの、歌詞とはこういうもの。こうした「○○的」な表現方法には、一見、それを「それらしくみせるチカラ」がある。

しかし、それは、どこまでいっても模倣にすぎない。そこに、斬新さや新しさはなく、そして感動も生まれない。本来、芸術や美術は、個性が表現されるもの。個性とは、オリジナリティそのもの。

「○○的」な模倣は、どこまいっても模倣。そうした見方で、世の中を見回してみると、感動をよぶ芸術の類が、芸術たる所以が垣間見える。

もし、その「○○的」な芸術をかぎ分けられないなら、学習や経験が乏しいか、よほど毒されていないことになる。すでにあるものをしっかりと学び、それを破らないまでも、オリジナルを目指してみる。

それは、はじめは何のことか理解されないかもしれない。しかし、そこにこそ新しいものの種がある。自分の中にある「○○的」表現を脱ぎ捨てよう。

才能

自分には、才能があるのだろうか。物事がうまくいかないとき、そう感じることがある。そもそも、才能とは何か。その根本にあるものは、技術的な要素ではない。その本質は、「継続できること」にある。

つまり、それが好きであるということ。どんな天才であっても、その才能が認められるまでに、およそ10年の歳月を必要としている。

つまり、10年続けられることこそが才能で、それが出来るかどうかがキモになるといっていい。一方で、才能のない人はいないという。そもそも、人というのは、自分に才能のない分野や物事に興味を持たない。

今、総理大臣になろうと思わないことと同じだ。興味があって行動に起こすということは、それは、自分には才能があるということだといえる。あとは、それを継続することができるか。

それほどの情熱を持って続けることができるか。他人は、それを「努力」というかもしれない。しかし、当の本人は、努力した覚えはない。勇気があったと評価されるかもしれない。

しかし、本人にとっては勇気でもなんでもない。朝、通勤電車に乗ることに勇気がいるだろうか。そういった感覚で、続けていける。それこそが、まさに「才能」である。

アリストレスは、こう言った。「才能とニーズとの接点に天職がある」まさに、これこそが成功の黄金律なのだろう。

マラソンとルール

人生は、航海や登山、マラソンなどに例えられる。それらに共通する事柄として、忘れることはできないことがある。それは、「自分との戦いである」ということだ。そこに、競争相手は存在しない。

いやいや、マラソンには競争相手がいるじゃないか。そう感じるかもしれない。しかし、マラソンを走りきるとき、自分以外の相手を意識したとき苦しみが始まる。あいつを抜きたい、こいつに勝ちたい。

その思いが、自分のペースを崩していく。そして、誰の所為でもなく、自ら敗北する。勝利を掴むルールは、ここにある。他人との相対的評価ではなく、自分自身の内面における絶対評価。

それが、本来すべてであるはずだ。家が小さければ不幸だろうか。食事が質素であれば、それは不幸だろうか。幸せという定義も、外の世界に決められるものではない。自分が幸せであれば、それでいいはずなのだ。

自分の尺度を、外の世界に向けず、常に、自分の内面に向けておく。人生が、マラソンに例えられる真意は、それが、人生のコツであると教えているように感じる。先に行くものは、行ってもらえばいい。

追い抜きたければ、追い抜いていけばいい。他人と比較して評価することを止めよう。それが、人生の基本的なルールなのだ。

これでいいのだ

達成感を感じることができれば、人生は、とても充実したものになるだろうか。多くの人は、それを心のどこかで求めているし、仕事においても、それが重要な要素となっているだろう。

しかし、達成感には、必ず必要なものがある。それがなければ、どんなことでも達成感は感じない。それが、苦労や困難といったカベだ。毎朝の通勤に達成感は感じない。いつもどおりに朝起きることに達成感は感じない。

そこに、カベや困難さがあるから、達成感は感じられる。一方で、多くの人はカベや困難さを嫌う。出来れば、楽したいと考えているものだ。ここに大きな矛盾が生じることになる。

毎日に何の不安も緊張もなく過ぎていく状況になれば、生きている実感も湧かなくなってしまうもの、人間にとってみれば、それが最も苦痛さといってもいいだろう。

今、事の大小はあるにせよ、問題や困難さを抱えていない人はいないだろう。それは、実は、人生を楽しむためのもの。この状況に、自分が何を感じ何を考えるか。それを、客観的に見てみれば面白さも感じるだろう。

この一見、不謹慎に見えることが、視点を外部ではなく、内面に向けることにつながる。その達人こそが、「バカボンのパパ」であろう。はっきりいって、むちゃくちゃである。

しかし、最後は、「これでいいのだ」で片付ける。今、どんな状況にあったとしても、これから、何かが起きる予感がしたとしてもいい。「これでいいのだ」と、言ってしまおう。

辛い仕事

好きなことを仕事にすると不幸になるか。それは、物事の一面だけを薄く刈り取っているにすぎない。人生の中で、約1/3の時間は仕事に従事している。その時間を、耐えて凌ぐほど不幸なことはないだろう。

ポイントは、「好きなことを仕事にする」ことではなく、「好きなことで成功する」ことにある。では、好きなことで成功することは可能か?それは、取り組み方によるだろう。

好きなことと、世の中のニーズに接点があること。好きなことで成功した人には、必ずその接点がある。自分の好きなことにニーズとの接点はあるか。それは、ひとつの宝探しのようなものだ。

好きなことを、そのままの姿形で捉えていては、その接点が見えてこないことは少なくない。見方を変えたり、捉え方を変えてみたり、表現の仕方を変えてみたりする必要がある。

車を運転するのが好きだから、カーディーラーになる?おそらく、車の運転する時間は、多くはないだろう。では、タクシーやバスの運転手はどうだろう。おそらく、それも違うのではないだろうか。

「車を運転することが好き」ということを、そのまま実現しようとしても、接点は見えてこない。車のテスターはどうだろか。評論家やライターというのはどうだろう。運転することで、何を実現したいのか。

それを具現化する方法に何があるのだろうか。それは、まさに宝探しそのものだ。好きなことの行為に目を向けるのではなく、そこで、自分が何を感じたいのか。その感情に目を向けた方が、答は見つかりやすい。

それが、答かどうかを見分ける方法は、それを実現しようと、ワクワクするかどうか。そのワクワクは、才能がイエスといっている証拠。あとは、行動あるのみ。好きなことを仕事にすることは不幸になる。

改め、好きなことを仕事にして幸せになる。事実、それを実現している人たちがいる。出来ない理由を探すのは、今日までにしよう。

失敗の定義

失敗の定義をもう一度しておこう。失敗とは、「諦めたとき」。もう、それに取り組むことを諦めたときが失敗。諦めなかった場合、たとえうまくかなかったとしても、それは、うまくいかない方法を学んだだけに過ぎない。

この考え方には、もう一方の見方として、「必ず成功する方法」の秘密まで隠されている。それは、「成功するまで、諦めないこと」。つまり、成功するまで諦めなければ、失敗することはなく、成功というオプションしか残らない。

もちろん、その過程は順風満帆ではないだろう。他人は、その一時点の状況を捉え、「失敗」というかもしれない。しかし、周囲の人間の価値観における失敗には、何ら、感情も行動も左右される必要はない。

それをはじめてしまえば、何も出来なくなってしまう。ただ、諦めないで、継続するだけ。それを、行ったものだけに成功は訪れる。そして、成功した暁に彼らは問いかけるだろう。

「成功の秘訣は何だったのですか?」。そして、こう感じるだろう。「自分にもチャンスがあればできるのに」。どちら側の人間に立つか。すべての人は、まずそれを決めなければならない。