テクニック活用法

テクニックというものは存在する。僕は、キャリア上、様々なテクニックを「知っている」。営業テクニック、マーケティングテクニック、セールステクニック、対人テクニック、etc。

テクニックについて訊かれたり、伝えなければならない場面があれば話すことがある。そうすると、ほとんどの場合で、「もっと、知りたい」「もっと、活用したい」となる。

そこで、僕が必ず話すことがある。「テクニックを過信しすぎると破滅しますよ」そして、こう付け加える。「テクニックは2割が限度。味付け程度に使うのが適切」どんな場面でも、常に対象は「人」。

たとえ、自分ひとりで行うことであっても同じだ。人は、テクニックでは動かない。厳密にいえば、動かすことはできるが、それだけでは、期待する成果には結びつかない。

あくまでも、「人」を中心に考えることだ。それには、もちろん「自分」も入る。テクニックを知っていれば役に立つ。しかし、使う場面を精査して、ほんの少しだけ使う。

それが、もっとも効果的な使い方である。だから、僕は知っているテクニックを駆使して、すべてを何とかしようとは思わない。

テクニックさえ身につけば、思い通りにできるなどと思わないこと。ほんの少しだけ使う。これが、テクニックの活用法だ。

決断と責任

自分の行った選択にどれだけの責任を取れるか。それは、様々な場面で問いかけられている。それは、自分がどれだけ「決断」しているかを、問われているようなものだ。

決断するということは、自分の人生を自分の足で歩むことを意味する。釣れない理由を、いろいろと並べることがあるが、その言い訳は、責任回避の証拠。

どんな結果であれ、責任を受け止めなければ、本当の意味で、決断したことにはならない。しかし、現実には決断をしなくても時間は進む。物事は、自分の決断の有無に関係なく進む。

その決断をすることなく、流されることは、板の上の将棋の駒と同じようなもの。将棋の駒は、自分で動こうとはしない。誰かによって動かされることを待っている。

そして、動かされた先にあるのは他人の目標。それ実現するために手助けするばかりとなる。逆に、責任を取る覚悟をもって選択するならその結果がどうであれ、自分にとっては常に正解。

必ず、その結果はプラスとなる。だから、責任をとって決断しない手はない。欲しい結果を手にしている人たちは、自分の責任をすべて受けて入れている事実。

決断は行った時点で、すでに結果を得ているという。そう決めた時点で、結果は保証されているのだ。決断は、魔法のランプ。擦れば、欲しい結果や願いを何でも叶えてくれる。

ただ、ランプの精は、責任を取るものだけの望みを訊いてくれることになっている。決断力とは、責任力を意味している。

ヒラメキはどこから来るか

ヒラメキや直感が、どれほど価値があるか。それを、改めて説明する必要はないだろう。ヒラメキによって、もたらされるモノの如何によって、ここぞという場面での結果の違いに出る。

これは、それまでの経験の長さや、実績の多さより何より、力となるものでもある。ヒラメキを得たければ、やっぱり大切なことは、「準備」することに尽きる。まずは、適切な質問。

答えのない質問ではなく、明確な答えが導かれる質問の形。適切な質問を投げかけた後、次に大切なことは、期待して「忘れる」こと。質問を投げかけたら、忘れる。

固執することは、顕在意識に留めることになる。忘れることで、潜在意識にボールを渡せば、潜在意識は、フル回転で解決しようとし始める。そこまでの準備が整えば、自然と多方面からの情報収集が始まる。

その情報収集の過程には、完全に集中した思考がある。そして、次に訪れるのは、混乱。情報が多岐にわたり、深さがあるほど、混乱の度合いも激しくなる。頭が混乱してきたら、それはOKサイン。

だから、そこで投げ出してはいけない。混乱を受け止めるということが必要だ。ヒラメキは、混乱の後にやってくる。混乱した思考を排除してしまってはいけない。

笑顔で、しっかり握手する余裕を持とう。今までの自分の殻を破る。そんなヒラメキを期待してみよう。

困ったことにしない

困ったことが、起きる。普通に、当たり前のように起こる。しかし、「困った」という考え方が、決して良い結果を生まないことには理由がある。

幕末の奇才、高杉晋作は、生涯、何があっても「困った」と口にしなかったという。「俺は父から教えられた。男子たるもの決して困ったという言葉を吐くなと」窮地に追い込まれた場合でも、「困った」といわない。

「困った」といったとたん、人間の知恵も分別も出ない。そうなれば、窮地が死地になる。活路が見出せなくなるのだという。知恵を導き出すのは潜在意識。潜在意識は、与えられた質問に答えようとする。

しかし、「困った」という問いに答えなどない。潜在意識は、それでも答えを探そうとする。思考はループし、精神は消耗していく。そして、いずれストップしてしまうことになる。

決して、「困った」と口に出して言わないこと。「困った」と言葉に出した瞬間に知恵は出なくなる。困った状況に陥ったら、こう問いかける。

「今の自分に何が出来るか」こう問いかけることによって、同じ状況であったとしても、打開するための答えや知恵を導き出すことが出来る。高杉晋作は、倒幕を見ることなく、28歳でこの世を去った。

そして、次のような辞世の句を残した。「おもしろきこともなき世をおもしろく」「困った」ことを、「困ったこと」にしなかった、高杉晋作らしい辞世の句だと思う。

ローリング・ストーン

ローリング・ストーン。「転がる石にコケはつかない」この意味の捉え方には、二通り考えられる。ひとつは、「コケ」を「常識的価値観」と捉え、常識に囚われない生き方をするということ。

もうひとつは、「コケ」を「技(スキル)」と捉え、新しいことばかりでは、何も身につかないということ。本当の意味は、云々というのはあるだろう。しかし、肯定的な解釈、否定的な解釈、どちらの解釈を選択するかは個人の自由だ。

他人からみれば、同じ転がっている石にしかみえない。ある人は、「それでは何も身につかないぞ」と忠告し、ある人は、「そういった生き方がカッコいい」という。つまり、起きている事象には意味はない。

そして、周囲の価値観にも、また意味はない。結局、「自分がどう解釈するか」というだけだ。坂本竜馬が、「我なすことは、我のみぞ知る」といったように、フォードが、「できると思えばできるし、できないと思えばできない」といったように。

人と人とが関わり合う世の中は、単純ではないから、必ずどこかで、思い描いたとおりいかないことが起きる。周囲の解釈や価値観と、自分の現状とのギャップ。それを埋めることばかりに注視すると、どこかで行き詰る。

そのとき、何を軸にして物事に対処するか。それが、「幸せ不幸せ」を決めるといってもいいだろう。他人の基準で判断していれば、いつまで経っても不幸。自分の基準で判断していれば、何があっても幸せ。

周囲の目には、どう映ろうが、転がる石は、転がされているのではない。

人生の達人の極意

ツイてないことは起こる。そういった場合、2つの側面で、そのことを見つめるようにしてみる。ひとつは、「学び」という側面。その一見ツイてない出来事から、学ばなければならないことは何か。

それを伝えるためのメッセージだとしたら、何を感じ取って、どう解釈するか。それは、それまでの警告や助言を無視した結果か。信頼できる人からの助言の受け止め方に、学びのポイントがあるのかもしれない。

もうひとつは、「功を奏する」場合。渋滞に巻き込まれたから、事故にあわずに済んだのかもしれない。車のエアコンが故障し、窓を全開したから、山道の空気を肌で感じることができたかもしれない。

とにかく、一見マズイ出来事も、解釈ひとつで、イライラしないで済む。どちらの解釈をとってみても、つまりは、「人間万事、塞翁が馬」ということだ。人生を学びのステージとするならば、課題をクリアしなければ同じような問題は起こる。

だから、いつも金銭の問題を抱えている人、いつも、異性の問題を抱えている人と様々。学びを得れば、次のステージへステップアップ。出会う課題の質もレベルも変わってくる。

とにかく、問題やツイてないことは、レベルアップのために課題ということになる。いろいろとツイてないことは起こる。しかし、あとは、解釈ひとつでツイてないことは、「ツイていたこと」にすることができる。

だから、ツイてないことが起きない人はいる。ただし、「本人にとってみれば」という条件付きだ。人生をうまく生きる人というのは、そういった生き方をしている人ではないかと思う。

遠回りをしてみる

自分には、悪い癖がある。これは良いと思ったことに、とりあえず手をつけようとすること。そのおかげで、ずいぶん脈絡の薄いものが、あちこちに出来上がってしまった。それは、決してムダではない。

しかし、放置しておくメリットもないのは事実。次にやるべきことは、それぞれの関連性を見出すこと。いっそのこと、捨ててしまうのもいいだろう。そういった考え方も悪くは無い。

しかし、一度は、着手したものであるから、決して、無関係のものばかりではない。その根底には、必ず「意味のある」ことがある。それらを見出すことが重要だ。統合できる部分は、何か。

使える部分は、どこかにないか。そう考えてみると、まったくムダにならないことがわかる。逆に、そうやって膨らましたことで、本当にやりたかったことに深みが出てくる。これは、とても重要なことだ。

参考材料が、重要な役割を果たすことに気付く。「膨らましてから、削ぎ落とす」はじめから考え方を固めてしまわず、一度、膨らましてみることをやってみる。一見、ムダに思えることも、後になってみれば、重要な意味を持つ。

賢くこなそうと考えすぎないこと。遠回りが、すばらしい出会いをもたらすことがある。

ステージを作る

人は、どうしても今ある選択肢から、物事を選択しようと考えてしまうもの。それは、いわゆる固定観念だから、その枠を外すだけで、悩みがなくなることもある。

むしろ、バイタリティが溢れてきて、自分でも信じられないほどの力が出ることもある。社会に出れば、なおさらそういった傾向がある。会社の役職や立場などから始まり、自分のしたいことをやるために会社を起こすことも出来る。

そのためにやらなければならないことは、「お願いしてみること」だ。そして、諦めないこと。自分がどうしたいのかということを、明確に表現するだけでいい。実は、これができてない人は意外と多い。

はじめから、無理だと決め込んで、ストレスや悩みを抱えている。残業が多くて愚痴をこぼしているなら、まずは、残業をしないと決めてみる。そのためのステージとして、何が必要で、どう振舞えば良いのか。

正当な主張や想いがそこにあれば、それは、決して「わがまま」とはとられない。自分の価値を最大限に表現するために、何を見せ納得させることが得策か。

こうした「意思の結晶」が、自分の過ごしやすい(活躍できる)環境になる。自分のステージは作ればいい。まずは、そのスタンスから、物事を考えてみることを始めてみよう。

ジャンピングチャンス

人間は、ひとりでは生きていないから、自分の周りには、いろいろなことが起こる。時に、避けようのないことや、この先のことも判らないことも起きる。周りを見渡せば、平然と歩き生活する人たちがいる。

「どうして、自分だけがこんな目に会うのだろうか」そう感じることもあるかもしれない。しかし、それは決して「自分だけ」ではない。それは、むしろステップアップの機会、つまり、ジャンピングチャンスの到来だ。

孔子は、論語の中でこういっている。「君子固より窮す。小人、窮すれば、斯に濫る」つまり、窮地に陥るのは避けられない。人間を分けるのは、そのとき取り乱すかどうかだ。

焦ったところで、状況は変わらない。怒ってみたところで、それはなくならない。嘆いてみても、道は開けない。恨んでみても、新しい一歩は踏み出せない。平常心で受け止め、冷静であること。

それが、唯一道を開き、新しい一歩をつくる。そうした態度が、気付きを与えてくれ、成長を促し、結果的に困難を乗り越える。ジャンピングチャーンス!そう言ってのけるくらいの余裕。不謹慎であっても、それくらいがちょうどいい。

自分発の選択2

「自分発の選択」、「意思ある選択」について、補足しておかなければならないと思う。意思ある選択をするには、それで何を実現するのか、また、今何をしているかは、全く関係ない。

どんなときも、何をしていたとしても、「意思ある選択」というものは、することができる。「意思ある選択をする人=起業家や反体制」ではない。そのことを、よく表している逸話がある。

以前にレンガ積みの話を書いたことがあるが、ここで、それを再掲しておきたい。教会の壁のレンガを積み上げる3人の職人がいる。ある人が、男達に質問をした。「あなたは、何をしているのですか?」ひとり目の男は、こう応える。

「レンガを積んでいるのです」二人目の男は、こう応える。「生活のために、レンガを積んでいるのです」三人目の男は、こう応える。「多くの人を悩み苦しみから開放する教会を作っています」外部の人たちからみれば、3人の男達がしていることは、同じようにみえるだろう。

そして、レンガを積むという結果も、大局的にみれば同じだ。しかし、それぞれの男達が、自分の行為に対して、自分自身で選択していることは違う。生活のためだけにレンガを積み上げた人生と、自分の意思を持ってレンガを積み上げた人生。

どちらも行ってきた行為はおなじでも、どちらが人生という時間に多くの価値を与えただろう。3人目の男は、他人の評価がどうであろうと、幸せな人生を送っているといえるだろう。もともと、人生には意味などない。

自分の行為に、どういう意味を与えるかは、全くもって自分の選択次第。意思とは裏腹に「こなす」こともできるし、自分で意味を与えて、周囲をも変えることもできる。

今の自分の状況は、過去の自分の選択の結果。そして、未来の自分は、今の選択の結果。「自分発の選択」、「意思ある選択」というのは、意味を選択するという、とてもシンプルなものだ。