世界をコントロールする

あらゆる事象は、中立だという。そして、実際にそうだといえる。たとえば、リストラされたことに意味はない。それを「失業した」とうなだれて落ち込むか、「これで好きだった仕事ができる」と思うか。

つまり、事象に対して、自分がどう感じるか。それが、良いとか悪いとかであって、その事象そのものに意味はない。しかし、感情というのは抑えられないときがある。そうはいっても辛いものは辛い。

時間が解決してくれるとわかっていても。それが、本当は自分とって幸運なことでも、そのときには、最悪な気分もある。事象が中立であることはわかるが、そこで、ほしい感情だけを選ぶのは難しい。

それは、感情を押し殺すことでも、湧き上がった感情を拒否することでもない。感じたことは感じたこと。その感情をそこにおいたまま、ひとつ上の視点から感情を眺めてみる。

ああ、辛いんだ、悲しいんだ。それを、充分に「理解」してあげたなら、それがなくても、達成できることを「感じてみる」。たしかに、それだけがすべてではないはず。

他の手段や方法や考え方はいくらでもあるはず。すると、その「考え方」に制限がないこともわかる。つまり、もともと制限や条件などなく、ほしいように考えたいように「感じる」ことができる。

制限や条件があったように感じたのは、実際は、そうでないことを気付かせるためだった?たしかに、そうかもしれない。世の中で、完全コントロールできることは唯一つ。

自分の感情だけだ。それができれば、自分の外の世界を、完全にコントロールしていることに繋がる。

経験だけでは硬すぎる

経験は、宝である。これには、間違いはない。しかし、経験は、完璧ではない。つまり、すべての状況に適切には応えない。

「経験は、自信には繋がるが、常に、最善策を示してくれるわけではない」このことに気付かず、自らの経験を振りかざすだけの、自信過剰のコンサルに出会ったら、クライアントは不幸だ。

交通ルールを知らないで運転する自動車に、同乗させられてしまったようなものだ。事故率は、格段に高まる。そして、彼は決まってこういう。「あなたのケースには合わなかった」。

物事を成すためには自信は必要だ。それは、推進力の原動力となる。さらに、必要なことは経験からではなく、歴史から学んだことを適用できるかどうかだ。個人の歴史など、20年そこそこ。

過去の賢人たちの歴史は数百年に及ぶ。積み上がったものが勝てるわけがない。重要なことは、過去の歴史から丸写しするのではなく、それぞれのケースに応じて、適用していくことだ。

このコツを知らない人たちには、次のようなが見られる傾向がある。・事実と意見を混同する。・体系よりも、経験から得たものを重視する。・質問することより、自分の主張を重視する。

経験だけに偏ってはいけないし。知識だけにも偏ってはいけない。何事も、バランスと柔軟性。学習に裏づけされ、身に付いた知識。

そして、それを応用できる柔軟さやセンス。本当に強いのは、硬いものではなく、柔らかいものだということを理解しよう。

バランスを保つ

気が付けば、生活のリズムも一定。いつものと、同じ毎日を過ごすようになる。それは、つまらないようでいて、本当は、脳の生存本能的には喜ばしいこと。

ただし、同じことを同じようにやり続ければ、どこかに偏ったリズムになりやすい。ちょうど、使うことの少ない筋肉が、凝り固まってきて、その周辺まで影響するように。

何かズレのようなことを感じたとき、その原因が、そのズレ自体にない場合もある。たとえば、背中のハリが腰に来る。そして、目の疲れが、肩に来る。いずれも、偏った生活リズムの積み重ね。

この対処法は、腰や肩ではなく、背中の柔軟や、目の疲れを取ること。この傾向は、身体だけではなく、思考や心のあり方も、同じだといえる。1週間のうち、2日は関係ないことをする。

この習慣は、色々なバランスをとるためには、比較的簡単で効果的な、最適の習慣となる。どこか上手くかみ合わないような、ズレを感じたら、違うことをしてみる。

そのときに、そこに何かを感じたら、その反対側にあるのがズレの原因。怒りの感情の反対側に、自分の本音があるように。どこかで感じるズレや怒りは、補正するべきポイントを示唆してくれる。

その機会を、うまくいかすようにすれば、後悔よりも、成長の方が大きくなっていく。何事もバランス。バランスが崩れれば、反対側に動けばいい。そのことを教えてくれていると気付くだけでいい。

同時にかなえる

望みというのは、1つの分野には限らない。仕事面もあれば、趣味の面もある。体裁的な面もあるだろうし、男女間もあるだろう。

望みを多く持っていることを認識すると、どこかで、すべては無理かもしれないと感じてしまう。それは、好きなことばかりをすることを、何度も咎められた、幼いときの記憶かもしれない。

しかし、一度に望みを叶えてはいけないと、一体、誰が決めたことがあるだろうか。そして、すべての望みをかなえたとして、バチがあたると誰が決めているだろうか。そんなルールや法則は、どこにもない。

むしろ、すべての望みを同時にかなえようとする方が、その相乗効果で、物事はうまく進んでいくものだ。もし、望みに順番や条件をつけているならば、その順番や条件に、意味はない。

実際、実現するときには、思いも寄らない方向で、そのことが、実現してしまうことがほとんどだ。だから、勝手につけた順番や条件に意味はない。むしろ、それが行動にブレーキをかけてしまう。

望みがあるならば、それを一度に実現したイメージを持つ。そして、すべてを叶えてしまおう。同時にかなえて何が悪い。それに、罪悪感を感じる必要は全くない。

缶コーヒーの味

清涼飲料水の製作過程を見る機会があった。それは、複数の人口化合物を組み合わせるもの。それは、至って簡単で、いろいろな味や風味が、あれよあれよという間に出来上がってしまう。

これをみたとき感じたことがある。「この世界の勝算は、商品開発というより、新しいコンセプト開発にある」つまり、新しい味を作ることに、あまり悩むことはない。

むしろ、売れるか売れないかは新しいコンセプトにある。実際、缶コーヒーには、様々な銘柄があるが、その味の違いが、どれくらい明確にいえるだろうか。買っているきっかけは、むしろコンセプト。

商品名であったり、デザインから受け取れるイメージ。「朝の~」とあれば、朝であれば選びやすい。「食後の~」とあれば、食後に選んでしまいやすい。

もちろん、その味や混合の違いはあるのかもしれないが、その違いがいかほどかは、正直わからない。そして、その味の違いがあったとしても、それは、買って実際に飲んでみなくてはわからない。

まずは、手にとってもらうためには、味の出来云々よりも、コンセプトの方が重要だ。もちろん、うまいのは大前提。不味ければ、その次がなくリピータは生まれない。商品開発とは、つまりコンセプト開発。

モノが溢れ、無いものが無いといえる現代。この概念は、すべての業界に当てはまるといえる。商品の出来や機能に大きな違いを持たせることは、難しい。

新しいコンセプトを開発するということ。そのために何が必要で、どう活動すればいいのか。それが、次のステップへの指針だと感じる。

知識と想像

頭は、使わなければ衰えるという。頭を使っていない状態とは、思考していない状態。つまり、「想像」していない状態だといえる。

元来、人や生き物の性質は、いかに、楽をして生きることができるかにある。だから、基本的には、変化を望まないし、今日と明日の状態が異なることを嫌う。

情報を得る手段は、いくらでもあるから、「知識」というのは、放っておいても増える。これを、頭を使っていると理解してはいけない。

そこに、「想像」が加わらなければ、「思考」とはならないし、脳は活動しない。相対性理論を説いた、アインシュタインはいう。「われわれは何もしらない。

われわれの知識のすべては小学生と変わらない」そして、こうともいう。「想像力は、知識よりも大切だ。知識には限界がある。想像力は、世界をも包み込む」想像力を使う機会を歓迎しよう。

そして、積極的に想像力を働かせよう。それが、世界を包み込み、そして、自分の周囲の状況を変えていく。

反省

何かを得るために行動する。これは、人間の基本的欲求の部分だろう。しかし、本当に自分自身が望んでいるのは、何かを得るため行動することではない。それは、死の間際になって気付くのだという。

何かを得るためだけに生きてきた人生。結局、死後、何一つ持ち続けられない事実。対して、どういう人間であるかを問うた人生。物質的なもの、名誉的なもの、そういったものは、わずかかもしれない。

しかし、そこには、心底自分との別れを、惜しんでくれる人たちがいるということ。それは、自分が残してきた証。物質的なものは、いずれ他人の手に渡る。そして、いつしかそれが誰のものだったかも判らなくなる。

名誉的なものは、後世の人に渡される。そして、誰がいつそうだったか、いずれ忘れられていく。そうした中で、唯一残り続けるものがあるとすれば、それは、自分がどういう人間であったかということだろう。

最後には、それを自分が決めるのではなく、係わった人がどういう人だったかを決める。「人生は、何を得たかではなく、どういう人間であったかということで評価される」。

しかし、人は、神でも仏でもない。普段の生活の中では、どうしても得るものに目が行く。それは、自然なことで当たり前のことだ。大切なことは、選択を迫られたとき。

損か得かの判断を迫られたとき、善か悪かの判断の置き換えてみる。善か悪かの判断とは、本心の判断。損得の判断に、後ろめたさを感じたなら、心の中で、善悪の判断に委ねてみる。

たとえ一時は損であったとしても。その一時の損は、人生にとっては損ではない。忘れた頃に大きな徳となって返ってくるものだ。現実は、誘惑と欲求の連続。見直すべきところは、多い。

未来を変える

新しいビジネスへの転換や、打開策を考えるとき、いろいろな方法や考えが、バラバラと出てくる。それらは、一見、関連性が無いように見える。そして、もちろん実際、関連がないものもある。

バラバラとあるものを、個別に実行レベルまで、押し上げていくというのが、一般的だろう。それは、「大量行動の原則」に基づけば、直接、関連性がないとしても、一時にやったほうがいい。

さらに、もう一歩踏み込むならば、関連性を持たせた上で、一時にやったほうがいい。その理由は、コストとリスクの考え方による。バラバラにやることがリスク分散になるという考えもある。

しかし、新しいものにかけるリスクとコストは大きい。既存の仕組みの中に入れ込めば、リスク分散にはならないが、大きなリスクは避けられる。

新しいことにチャンレンジするときは、ハイリスク・ハイリターンの施策一本では心許ない。小さな成功の積み上げで、大きな波を起こす。そうした取り組みが功をなすことが多い。

だから、バラバラあるものは、できるだけ既存のものに関連性を持たせる。できれば、今ある活動の中に組み込めるレベルに、考え方やコンセプトを変えてみる。

大きなことを考えようとしないことが、こうしたことをかんがえる場合のポイントになる。ほんの少し、見方を変えるだけで、うまく組み込め、親和性を持たせることができる。

今の結果は、過去の行動の結果の積み上げ。未来を変えたければ、行動の積み上げをかえるしかない。それには、それなりのパワーがいる。だからこそ、大量行動の原則+関連性。

小さいけれど、力強い一歩を踏み出す。それが、唯一の未来の結果を変える方法だ。

情報のフィルター

必要な情報は、向こうからやってくる。「情報は、取りにいくと偏る。だから、自然と入ってくる情報だけを受け入れ入る」ある番組で、北野武が語っていた。

自然に入るものだけを受け取るというのは、ひとつのフィルターであるといえるだろう。「自然と」という表現があるが、実は自然ではない。脳というのは、必要とした情報した顕在化させない。

つまり、不要な情報はそぎ落として意識させる。だから、「自然と入ってくる」という表現は、「脳が選択した結果として受け取った」となる。

日頃から、問題意識を持っていたり、気にかけている情報は、脳がそれを選択する。これは、決して他人まかせでも、神まかせでもない。自分を信頼している証拠のひとつだといえる。

情報化社会の中、わからない情報はない。欲しい情報は、何でもすぐに手に入るといっていい。これは、喜ばしいことであることに変わりないが、それを受け取る側のスタンスは変える必要がある。

すでに、情報は、「求める時代」から、「選択する時代」への変わってきている。自分の意思なく、受け入れ始めると、必ず誰かの意思に流されていく。そこで必要なことは、「情報を捨てる」ということ。

「余計な情報を受け取らない」ということだ。そのための脳に問題意識を与えて、そのフィルターを通すことで選択するという方法。

それは一見、神業のように感じるかもしれないが、実は、最も自然で当たり前な方法なのかもしれない。

水泳の基本

子供の頃、水泳教室の先生に、水泳がうまくなる基本を教えてもらった。泳げる子と泳げない子の大きな違い。それは、「水中で息を吐いているかどうか」。泳げない子の多くは、水の中で息を止めている。

だから、息継ぎをしても新しい酸素が取り込めない。当然、肺の中の酸素を使い切れば、そこから先へは泳ぎ続けることができない。逆に、うまく泳げる子は、水中で息を吐く。

だから、息継ぎで新しい酸素を取り込める。「水中ではとにかく息を全て吐け。全部吐ききってしまうくらい思いっきり吐け」先生は、こう教えてくれた。「吐くだけ吐いたら、イヤでも空気は入ってくる」

この考え方と取り組みは、確かに、より速く長く泳ぐことを可能にする。簡単な方法だが、効果的な方法。やるのとやらないのとでは天地の差が出る。手の回し方や足をどうこうする以前の問題。

いわゆるテクニック云々以前の基本的なこと。新しいものを取り入れるために、「その場所を空けておく」という基本。これは、どんなことにも応用できるし、小手先のテクニックより大切なことだ。

まず、吐き出すものがなければ、出し惜しみをしているものはないか確認する。古いものは捨てる。知識は、どんどん吐き出す。出し惜しみなど、無縁だ。そうすることで、自然と否が応でも、新しいことは、次々と入ってくる。

これは、水が上から下へ流れることほど、当たり前なことであり、自然の法則だ。息を止めたまま、走っていないか。その苦しさを小手先でカバーしようとしていないか。

自然の流れに身を任せてみるほど、信頼でき、安心できることは無い。まずは、思い切って吐き出してみよう。