対面同席五百生

お釈迦様の言葉に、「対面同席五百生」という言葉がある。この意味は、今自分の目の前に同席している人は、これまでの生で五百回めぐり合っているという意味だ。人の縁というのは、それほどに奥深い。

そして、また縁を大切にするという気持ちもある。何度も生まれ変わる輪廻の中で、どういった形で、めぐり合ったかは判らない。ただ、関わりが深ければ深いほど、その人との関わりも、また深かったのだろう。

そう考えると、たとえどんな人であろうとも、初めて出会った気がしなくなる。そのとき、どういった関係であったかは判らない。しかし、何かを共にし助け合った中かもしれない。

ライバル同士で、切磋琢磨したのかもしれない。お釈迦のこの言葉の真意は、そうしたことへの感謝の気持ちなのかもしれない。時にぶつかることもあるだろう。嫌でも付き合わねばならないこともあるだろう。

「対面同席五百生」(たいめんどうせきごひゃくしょう)そんなときは、この言葉を思い出してみる。「このご縁にありがとう」そう思えれば、きっとその物事はうまくいく。

砂場の山

子供の頃、砂場で山を作った。大きな山を作るために、みんなで、まずやったことは土台作り。砂を盛っては、自分の胸の部分を打ち付けるように順番に飛び乗ってつぶした。

そうして大きく固い土台が出来上がる。そして、土台の大きさは山全体の大きさを決める。みんなで、「まだだまだだ」といいながら、砂を盛っては、上からつぶして土台にしていく。

子供たちが小さな砂場で行っていた、この小さな遊びにも、真理がある。「土台の大きさが山の大きさを決める」物事の実現を考えたときでも同じこと。簡単にできることは、それなりの山にしかならない。

大きな山を作る決意をしたならば、大きな土台をつくる覚悟と忍耐も必要だ。土台を作ったとしても、その上ができるという保障はない。その土台がどうなっていれば、理想的な山を作れるのかもわからない。

そんな状況でも、土台を作り砂を盛り続ける。その山は、完成する保障はない。認められ賞賛してくれるとは限らない。

しかし、もし山が出来上がらなかったとしても、その土台の大きさは、明確に自分を示してくれる。砂場で遊んだ頃の無邪気や素直さを、もう一度、思い出してみる。

その情熱や好奇心は、大きな力の礎となることに気付くことが出来る。

コントロール

リスクが大きいとか小さいとか。こうした議論が起こったとき、人それぞれの価値観の違いに改めて気付く。「大きい小さい」という概念は、まさに、人それぞれ千差万別である。

たとえば、転職を考えてみる。何度も転職を経験していれば、それは、大きなリスクではないかもしれない。しかし、初めてであれば、大きなリスクと感じてしまうかもしれない。

しかし、そのリスクを受け入れる決意をしたとき、それをいつまでも「大きいリスク」とするわけにいかない。リスクの度合いは、「コントロールできる度合い」。

自分でどれだけコントロールできるかが、そのリスクの大きさを決める。飛行機に搭乗し、事故に遭遇することは、死亡率が高くリスクが大きいと感じる人がいる。

しかし、一方で事故率が何十倍の車は、毎日、平然としてリスクを感じることなく運転している。この違いは、まさに「コントロールできる差」。

車は、自分が安全運転を心がければ、事故を起こす可能性を、抑えることが出来る。では、リクスを取らなければならない状況で、行わなければならないことは何だろうか。

それは、もはや「いかにリスクを避けるか」ではない。「リスクをコントロールするために、何をするべきだろうか」を考えることだ。

証券会社の営業マンの意見を頼っていれば、それは、コントロールしていることにはならない。自分で株を学び、相場感を得ることで、自分の判断で行えるようになる。

自分のコントロール下に置くために、今の自分は、何をするべきなのだろうか。リスクに不安や恐怖を感じる前に、少し落ち着いて、思い巡らせて見よう。きっと、進むべき道は見つかるはずだ。

素材とレシピ

素材が異なれば、レシピも異なる。素材を活かした料理を考えたとき、その素材の良さを存分に発揮できる料理がある。

たとえ、他人の作ったカレーが絶品でも、自分の持っている素材が違えばカレーは作れない。よくある間違いは、自分の素材を無視して、他人の成功の姿(料理)だけを真似ようとすること。

そして、もうひとつの間違いは、レシピさえも真似ようとしてしまうことだ。はじめにするべきことは、他人のレシピを真似ようとすることではない。自分の持っている素材を知ること。

そして、その素材の良さが発揮できる、料理の在り方について思い描くこと。他人の成功レシピを真似るならば、同じ傾向や思考を持ったレシピを選択すること。

この料理とレシピの選択を誤ると、理想の姿への道のりは必然的に長くなる。実際は、その長い道のりもまた、経験だ。そして、その過程でしか生まれないレシピもある。

しかし、忘れてはならないのは、自分の素材がなんであるのかということ。その素材が、もたらす価値は何であるかということ。

その部分に対する視点さえ見失わなければ、回り道すらも、決して無駄で恐れるものではない。自分だけのレシピは、簡単には作れない。しかし、そのレシピから生み出されるものは、決して誰にも真似のできないものになるだろう。

ゴミ捨て場をどこにつくるか

ゴミ捨て場をどこにつくるか。この質問は、ほとんどの発生する問題の原因と、その解決の方向性を指し示してくれる。たとえば、1丁目の角に作るとする。すると、その付近の住民はそれを拒否する。

だからといって、2丁目の角にする?答えは、同じだ。「誰でも、自分の家の前に、ゴミ捨て場があってほしくはない」しかし、一方で「ゴミ捨て場は必要」だ。苦情が出たから、それをやめさせる。

もしくは、同じレベルで横に移動させる。こうした方法では、決して解決策は出ない。たとえば、無策な政府というのは、こうした「安易な」解決法ばかりが目立つ。すべての人を満足させる方法はない。

それは、理解している。なぜなら、人それぞれの環境や価値観が違うから。つまり、社会や経済は、「人の感情」が作っているといってもいい。

しかし、いざ何かをしようとすると、「感情」という事実を全く無視してしまう。会社や組織、家族だって同じこと。今、何か問題を抱えているならば、この視点で、その原因を探ってみるといい。

きっと、同じ原因に行き着くはずだ。対症療法的な方法は、一過性のもの。本当の意味での解決策を見つけ出そう。

タマゴが先か

タマゴが先か、ニワトリが先か。この思考パターンにはまってしまうと、行動がストップしてしまう危険性がある。夢を叶えるには、お金がいる。でも、夢を叶えなければお金はない。

時間があれば、夢を実現できるのに、夢を実現しなければ、時間はない。そして、立ち止まってしまう。この思考パターンの罠は、「○○ならば、××だ」という公式にある。ほとんどの場合、この公式は幻想だ。

その幻想の根本にある理由は、誰一人疑わない「事実」だけではない。そこにあるのは、「今まで培ってきた自分の価値観」だ。つまり、自分にブレーキをかけるのは、いつも自分自身でしかないのだ。

この公式の罠にはまらないようにするためには、まず「ニワトリ(結果)だけを考える」こと。タマゴの必要性を諭す感情が出てきたら、「それは、事実ではない。ウソだ」と断言する。

それを認め、思考パターンが変わり始めると、新たな選択肢や可能性が必ず現れてくる。「だって、○○だから・・」そういって諦めている友人がいたならば、その友人を助ける事だってできる。

「それって、本当?」たった、この小さな質問ひとつで、その友人の人生が変わるかもしれない。存在しないニワトリから描く。その小さな変化への取り組みは、きっと大きな可能性への道を開いてくれる。

リーダーの仕事

うまくいかなったことを組織変更や体制変更で対応する。この改善プロセス自体は、決して間違ってはいない。ただし、その「改善」を活かすも殺すも、ひとつのプロセスを踏むかどうかにかかっている。

そのプロセスとは、「動機付け」。その改善プロセスの意図や目的をメンバー全員が「共有」できていること。「伝える」だけでは、完全に不足している。「伝えて理解して、共有する」という段階が重要だ。そのために行うことは、次のステップを確認しながら行うこと。

1.認知する2.理解する3.納得する4.共感する

各メンバーが、各ステップを確実に踏んでいることを、確認しながら、確実に共感のレベルまで持っていく。この共感プロセスの時間を惜しむことは、結果として、大きな損失を生む覚悟が必要だ。

メンバーが納得できないのであれば、納得できるまで、動機付けを行う必要がある。この過程を成功に導くのは、決して押さえつけではなく、「相手を理解する」というスタンスからしか導けない。

このコミュニケーション力の有無が、リーダーの質を決定するといっても過言ではない。リーダーという立場の人間は、このプロセスから決して逃げてはいけない。チーム力を発揮するためのモチベーション。

そのパワーを理解して生み出すチカラ。それらの重要性を認識し理解して取り組む。それが、リーダーとしての重要な役割のひとつだ。状況把握と管理は、得意という管理者は多い。

しかし、それだけではリーダーとはいえない。ビジョンを示し、それに向けて統一感を維持する。そのための活動こそがリーダーの役割だ。組織やチームには「リーダー」が必要だ。

管理者だけではチームはチームとして成り立たない。自分の役割を、自分自身で見直してみる。そして、部下の活動を「管理」することばかりとらわれず、リーダーとしての役割を全うする覚悟と決断が必要だ。

石の上にも三年

石の上にも三年。これは、ひとつのことを三年続けることで、ようやく次のステップが見えることを意味する。決して、三年続けていれば、それなりの成果がでるという意味ではない。

三年は続けなければ、その経験を活かした、次なるステージへのステップは踏み出せない。そのための最初の試験のようなものが、三年目に訪れるのだと解釈したい。

そういった意味でも、三年目というのは、いろいろな方法を試行錯誤する時期でもある。そして、ベストな選択を行って、また、三年という月日を経験していく。そして、また次の三年・・・。

こうして、九年目を過ぎた頃、ようやく成功らしい成果をてにすることができる。多くの成功者の過去の歴史をみればわかる。それまでの過程におよそ10年という歳月を費やしていることが。

方法を模索し成長する三年間。次へのステップを見出すための三年間。今の自分からみて、三年前の自分と、今の自分の違いは、どういったことだろうか。おそらく、反省する点や悔やまれる点もあるだろう。

しかし、それは確実に成長しているという証でもある。三年という月日における経験は、想像以上に多くのことを学ばせてくれる。石の上にも三年。×(かける)三。昨日より、今日。今日より明日。ひとまずは、確実にそこを目指していきたい。

「選択する」ということ

成功哲学の常套フレーズに、「人生は、選択できる」という言葉がある。この意味は、とても深く、言葉として捉えた場合に誤解を招くこともある。様々な状況や事実には、実は意味はない。

その意味を与えるのは自分という選択。リストラという事実を、ある人は不幸と考え、ある人は、チャンスと考えるだろう。そして、自分が何をするのかも選択できる。

「ちょっと待ってよ。そうでもないでしょ」「お金もないし、時間もないし」たとえば、世界一周旅行に行きたいと考える。しかし、時間もお金もないしな、と諦める。

これは、「選択」していることにはならない。選択する前に諦めているにすぎない。「選択する」ということは、それを実現に向かわせるための一歩を踏み出すこと。その一歩は、とても小さくても構わない。

その一歩が、次の一歩を生み出すことは少なくない。だからまず、世界一周に必要な費用や時間、手続きなどを確認してみる。そうすると、どれだけの費用と時間が必要か、それを実現するために何が必要かがわかる。

こんな小さな一歩でも構わない。まずは、目標を具体化するために具体的に行動すること。なんとなく、時間とお金がそれなりに必要だ。でも、どれくらいの時間とお金が必要かは判らない。

これでは、一体何を実現しないのかが判らない。「選択する」とは、実現に向け一歩を踏み出すこと。それもせずに諦めるならば、それは目標ではない。騙されたと思ってやってみるといい。

無理だと思っていたことが実はそうでもないことが判る。「人生は、自由に選択できる」この一見、非現実にみえる現実に気付き、選択し、そして、小さな一歩を踏み出してみよう。

制限というスパイス

社会には、ルールがある。通貨や為替というルール。そして、仕事の対価として受け取るお金。そのルールは、別の言い方をすれば、「制限がある」ということもできる。

やりたいことがあれば、必要なものがある。それを得るためには、制限を加えなければならない。決まった時間に決まった場所で、決まった時間の仕事をしなければならない。

一方、こうした「制限」があるからこそ、「達成感」というものがあることも事実だ。欲しいと思えば何でも手に入り、行きたいところにいつでも自由にいける。

そんなことができるのであれば、そこに、「達成感」や「満足感」はないだろう。それは、毎日家に帰るという行為に、達成感や満足感を感じないことと同じだ。

つまり、世の中のルールや制限は、「達成感」を味わうためのスパイスのようなもの。このように考えることはできないだろうか。思い通りにいかないことは多い。やらなければならないこともばかり。

だからこそ、達成感がある。もし、困難にぶち当たったなら、このように考えることにしよう。「だから、人生はやめられない」。

それは、スパイスが強烈であればあるほど、その後の達成感が大きいということなのだから。