足元を掘り起こせ

過去の偉人達に共通することは、「それでも、諦めなかった」ということだ。何度失敗したとしても、それを失敗だとせず、成功の糧としてきた。企業家であれば、破産回数は1回に留まらない。

政治家であれば、何度も落選する。学者であれば、ダメレッテルを貼られる。それでも、諦めなかった人たちが、後世に名を残す偉業を成し遂げてきた。「だから、諦めてはいけない」誰も否定することがない成功哲学の王道。

しかし、そんなありきたりなメッセージだけを、この場で伝えたいわけではない。偉人たちが、他の人たちと決定的に違ったのは、ただ、「諦めなかった」ということではない。「諦めなかった」理由は、もっと他にある。

それなくして、「それでも諦めない」という熱意は生まれない。それは、「諦めきれない目標を持つこと」。この大前提のステップをなくして、「それでも諦めない」という熱意は生まれない。

「諦めきれない夢」ただ、今、それが見つかっていなくても、それは、決して「平凡な人生」ということではない。「夢を実現することが人生」という定義があるなら、その人生の定義を変えてしまえばいい。

「人生とは、諦めきれない夢に出会うこと」。そう考えたとき、自分の行動の選択肢は、どのように変わっていくだろうか。遅すぎるということは、決してない。

カーネルサンダースがフライドチキンを売り歩いたのは、無一文になった60歳を超えてからだった。それから、千回以上断られている。

ただ、自分探しの旅に出る準備をしているなら、旅立つ前に、少し身の回りを注意して見回してみよう。「諦めきれない夢」は、未開の地にあるのではない。それは、往々にして自分の足元に転がっているものだ。

リーダーの資質

「私が決める」。ある人が、ことあるごとに、口癖のように、こうした主旨の発言をしている。そのたびに、リーダーとリーダーシップというものを勘違いしてはいないだろうかと感じてしまう。

リーダーには、決断力が求められることは事実。しかし、決断に大切なのは時合いとタイミング。タイミングを逸した上に、周囲を混乱させ、こうした姿勢を表すのは自己顕示欲にしか見えない。

リーダーとしての意思が垣間見えるというよりも、むしろ、申し訳ないが、とても滑稽にみえてしまう。リーダーとは、ビジョンを示す人であり、そして、先に行き、指し示す人であるという。

ただ、周囲に流されないように意地をはることや、自尊心を傷つけられる不安に対抗することではない。支持率が低迷する理由は、その発言云々というよりも、明確な意思と、その適切な表現の欠如にあると感じる。

過去の遺産や事例に乗っかってやれる時代があった。しかし、今は決してそういった時代ではないといえる。だからこそ、明確な意思やビジョンが必要であり、それを遂行するための胆識が求められている。

そして、それを選ぶ側としても、その意思を明確にしなければならないということでもある。政策ではなく、タレント性を重んじるという施策。「国民は、ごまかせる」という意思がそこにあると感じる。

我々は、一昔ほどごまかされはしない。そういった意思表示も必要なときだろう。こうした時勢だからこそ、真のリーダーを求めよう。

成長のバネ

本当は、自分を認めてほしい。自分の努力をわかってほしい。そういった感情を抱きながらも、そのことを率直に言えない人たちがいる。おそらく、自分を含めてほとんどの人は、そうではないだろうか。

しかし、その想いを相手に伝える方法は様々。自分を卑下した表現をして同情をかう人がいる。誰かを非難して、自分を主張する人がいる。

特に、誰かを非難することで、自分の主張を表現しようとする方法は得策ではない。それは、時として大きな誤解を生むことも多い。自分を認めて欲しいだけなのに、周囲からは、他人を非難する人としか映らない。

とても、もったいないことだ。そういった人を見かけたなら、その本音を観察して、その人が期待する方法を選択してみる。

その人自身の成長には繋がらないかもしれないが、その人の言動に一喜一憂するレベルからは抜けられる。ひとつ、上のレベルから対応するということ。つまり、「大人の対応」をするということだ。

そうすれば、そういった人へのストレスから開放され、自分の人間関係の悩みは一気に解決する。その人を好きになる必要はない。「理解してあげる」だけでいいのだ。

自分がそのように成長できたことに、その人を通じて感謝できるようになれば卒業。同じレベルの人間関係の悩みに遭遇することは、おそらく、無くなるだろう。

コミュニケーションの基本は、相手を理解すること。人は、人間関係の中で成長していくもの。自分の成長のバネにしよう。

完璧なバランス

何事にもバランスが必要。8:2の法則で知られるパレート法則は、あらゆる状況に適用できる考え方だ。売上げの80%を占めているのは20%の顧客。成果の80%を出しているのは20%の社員。

働きアリの世界であっても、この法則は、適用できるという話を聞いたことがある。働きアリの中にも、怠け者はいる。その怠け者を除いて、優秀なものばかりを集めても、やはり、怠けるものが出てくるという。

この事象は、嘆きべきことではない。そういうものだと受け入れることが賢明。そして、そういったバランスがあるからこそ、組織全体がうまくいくのでは、と考えてみる。

その考え方をサポートするように、オッドマンセオリーという理論がある。組織の中には、優秀なものばかりでは、衝突や競争ばかりで実力が存分に発揮されない。

「オッドマン」、つまり少しおっちょこちょいの存在が、組織の中にいるだけで、緩衝材の役割を担いうまくいく。

自然の世界の中に全くの「直線」が存在しないように、「完璧」という姿は、実は不自然なことではないかと感じる。完璧ではないことは、自然なこと。

それは、バランスが取れているということ。これも、モノの見方ひとつということだ。

素直さと覚悟

学習の最大の敵を目の当たりにした。助言やアドバイスを頭から拒否する行動。それは、成長を拒否する行動と同じこと。人は、それぞれの経験から価値観を持っている。

その価値観は、固定観念を生み出し、その人自身の行動や考え方の方向性を決める。自分の価値観がどれほどのものなのか。それを推し量るのは、実は容易い。

「今の自分の状態に満足しているか」

この答えが、自分自身に対する、自分自身の価値観の質の高さを表している。完全に満足できていないならば、自分の価値観や固定観念を変える勇気が必要だ。

しかし、そのためのきっかけを、頭から拒否する行動をとる人たちがいる。とても、もったいないことだ。そういう人や態度に出会うと、どうしても、「もう助言するのはやめよう」となる。

会社勤めで中途採用を行っていたとき、一番、重要視したことは「素直さ」だった。「素直さ」があれば、いくらでも成長することができる。

しかし、自分のキャリアに過信して、素直さが欠ければ、それは障害にしかならない。いくらすばらしいキャリアを持っていても、素直さが欠けていれば、採用することはなかった。

会社が違えば、文化もやり方も違う。それに、柔軟に応えられればキャリアも活かせる。その点、自分は変わり身の早さには定評(?)がある。

他人からのいい助言は、「そういえば、そうですね」と簡単に受け入れる。自分自身や環境の状況が変われば、考え方を変える柔軟性を忘れないようにしている。

ただし、真剣に考え、そこには意図があるから、決して、優柔不断なことだとは思っていない。常に真剣であり、まじめに考え方を変えている。それは、ひとつの「覚悟」だと思う。

そして、自分の価値観をむやみに守ろうとするのは、自分自身に対する「覚悟」が足らない行動だと思う。「素直さ」を「負け」と判断する人もいるが、「覚悟の表れ」だという見方をする方が断然いい。

覚悟を決めて、素直さを活かし、したたかに学習することにしよう。

損をしない投資

何に投資することが、最も投資効率が高いか。そんな話をしていたとき、判っていたことだが、結局同じ答えに行き着いた。

「健康」と「学習」

この二つへの投資が、もっともリスクが低く、そして、その効果も充分に期待できるものになる。健康を損なえば、医療費はかさむし、満足に食事や趣味も行うことはできない。

いくらお金や資産を持っていたとしても、それは、全くの宝の持ち腐れになってしまう。次に学習。世の中の変化は著しく、人は4年に一度、自分の知識を一新する必要があるという。

それを行ってようやく、現状維持が可能になる。さらにその上への上昇を期待するならば、それ以上の学習が必要だということになる。

「学習」とは、本を読んだりする座学だけではなく、さまざまな経験から得ることの出来る知識もある。チャレンジは、常に新しい知識や経験を与えてくれる。もちろん、それに係わる失敗も同じことだ。

お金や株、不動産などの物質的価値は変化していくもの。一方、健康や学習の価値は、投資すればするほど、増えることがあっても、決して減っていくことはない。

ベンジャミン・フランクリンはいった。「人生は、時間で出来ている。人生を大切にしたいならば、時間を無駄にしてはいけない」

1日24時間という時間を何に投資しているだろうか。投資という観点で、じっくりと振り返ってみるのもいいだろう。

何に尽くすか

期日のある予定が予定通りに進まなければ、焦りが出てくるのは、ある意味で仕方ない。しかし、不思議なことに焦れば焦るほど、さらに事態を悪化させてしまうことも少なくない。

焦りは準備不足を誘発するだけではなく、本来のあるべき姿すら見失わせる。もしも、理想的な完成形がイメージ出来ているなら、今何をするべきかを「感じ取る」ことが正解。

その行動に不安を払拭する根拠が見出せなくとも、それ自体に拘りすぎてはいけない。「今、するべきはこれだ」そう腑に落ちたら、あとは待てばいい。もちろん、行動して待つということだ。

「人事を尽くして天命を待つ」焦らず、完成形のイメージの実現のために、今、行うべきことは何か。それを行えば、あとは天命に任せればいい。これまでに話したことは、手を抜いてもいいということではない。

必要以上に不安や焦りを感じることなく、今出来ることに最善を尽くせば、あとは気にしない。その結果がどうであれ、それはきっと納得できるし、自分自身にとっても最善であると気付くだろう。

「損得よりも善悪を優先させる」「人生は、何を得たかではなく、どのような人間になったかで評価される」「永遠に生きるかのごとく夢を描き、明日死ぬかのように行動する」

こうした行動規範は、焦りのない人生の後押しをしてくれる。

ある男の最期

ある男が、人生の最期を向かえた。これまでの人生が砂浜に長い足跡を残していた。その足跡を、男を迎えにきた神様と見つめていた。砂浜の足跡は、二つ並んで残されていた。

その足跡を不思議そうにみる男に、神様はいった。「私は、いつもあなたのそばにいて、どんなときにでも、共に歩いてきたのだよ」

そして、その足跡は、やがて一人分になっていた。それは、彼が人生の中で最も辛かったときだった。そして、しばらくして、また足跡は二人分になっていた。

それを見た男は、神様に向かって怒ったように言った。「どうして、あなたは私が一番辛いときに、そばにいてくれなかったのですか!?」

神様は、その問いにやさしく応えた。「私は、お前を決して見捨てたりはしていない。そのとき、私は、お前を抱きかかえて歩いていたのだよ」

・・・・・・

この短い話は、たしかアメリカの作者不明の逸話。神様を信じるとか、信じないとか関係なく、なぜか、心洗われるような思いがする話。そう感じることできることが、もう少しがんばれることを指し示してくれる。

施策の本質

この厳しい経済状況の中、「営業力強化の大号令」が出されることも多い。営業力強化とは何なのか。何を一体強化すれば業績は改善するのか。それが見えてこない号令も少なくない。

そして、ノルマの設定と管理の強化という営業成績向上のためのナタが振り下ろされる。果たしてこの常套手段は有効なのだろうか。確かに、短期的な対策として、カンフル剤的な役目としては有効かもしれない。

しかし、それは体質そのものを改善するものにはならない。アメリカで、ある実験が行われた。A、Bの二つのグループに面白いクイズを解かせる。Aグループには、解けた分だけ報酬を与えた。

Bグループには、特に報酬を与えなかった。すると休憩時間の行動に違いが現れた。Aグループのメンバーは、全く別のことをして、まさに、「休憩」することに努めた。

一方、Bグループのメンバーは、休憩時間を惜しんでクイズを解き始めた。この明らかな生産性の違いは、報酬が自ら一定の制限を設けることから起こる。人間は機会でも、コンピューターでもない。

その行動の基本には、「感情」があることを忘れて行けない。それを理解しない「対策」や「強化」は、逆効果にすらなる可能性を秘めているのだ。安易な対策は、得てしてこういうものだ。

本気で、結果を変えたいのならば、そこで活動する人という生き物の本質を見つめよう。時間はかかるかもしれないが、それは、長期的、安定的な改革と成果を与えてくれる。

すべては運次第

日露戦争のときのロシアのバルチック艦隊との海戦は、世界海戦史上最も完全に近い勝敗であると注目を集めた。日本海軍は、ほぼ無傷で3日間の戦いを終え、まるで、海上演習を終えて帰ってゆくかのような姿だった。

その日本海軍の佐世保に帰還する姿に、ロシアの上級将校は、こう漏らしたと言う。「我々は霧の中で影に向かって大砲を打っていたのではないか?」この圧勝の要因を尋ねられた日本海軍の参謀は、「六割は、運だった」と応えたという。

「では、残りの四割は?」そう問われた参謀は、こう応えた。「残りの四割も、運。この四割は、自分たちの努力による運だ」結局、すべて運だという。しかし、運には自分たちが引き寄せる運がある。

その四割の運を引き寄せる努力や、自らの力があるからこそ六割の運も映える。直接の関連性がないように見える、六割の運でさえも、結局自分次第ではないか。この話を聞いたとき、そのように感じた。

運は、自分で引き寄せる。負の方向に回ってしまった歯車は、倍の力で正の方向に回し始めなければならない。運がないと嘆くのは、今日までにしよう。