歩き続ける

自分だけが、うまくいっていないのでは?他の人は、もっと楽に生きているのでは?そう感じてしまうほど、落ち込んでしまうことがあるかもしれない。

しかし、それは自分だけが他人よりも、劣っているという能力の足りなさによるものでない。チャレンジしている人にとってみれば、それは、つきものであるといえる。

そして、それを乗り越えてきたはず。今までも、そうしてきたはず。だから、これからも、それはできる。ブライアン・トレーシーの詩は、それを、思い出させてくれる。

「物事がうまくいかないとき自分の進む道がずっと上り坂に思えるとき貯金は少なく、借金ばかりがかさむときほほえみたいのに、ため息しか出ない心配事で心が押しつぶされそうなとき心配とあらば休んでもいい。

でも、やめてはいけない。人生に紆余曲折はつきもの誰もがそれを経験するそして、数多くの敗北を味わう彼もあきらめなければ勝てていたかもしれないどんなに苦しくても、あきらめてはいけない次のチャンスで成功するかもしれない。

成功と失敗は表裏一体疑いの雲があなたの目を曇らせ自分がどれだけ成功に近づいているかわからない遠くにあるように見えるが、実はすぐそこにあるのかもしれないだから、たとえ力いっぱい打ちのめされても、しがみついていよう最悪の状態に思えるときこそ、手を引いてはいけないのだ。」

何かが違う

何かが違うという感覚がある。そして、その感覚の大半において、その根拠というのが、見つけにくい。だから、頭で理論的に考えたとき、その感覚が、正しいという判断が下せない。

多くの人は、その直感を信じることが出来ず、理論的な思考の結果を重んじる。一方で、優秀な経営者ほど、自分の直感を信じているという統計もある。不確実性の要因だらけの世の中。

すべての情報を把握して理論的な解は出せない。そんなことをしようとすれば、すべてが、後手になるか出来ないことになる。直感というのは、根拠がないようでいて、実は、「壮大な根拠」に基づいているといえる。

様々な経験や、一見、無関係と思える情報。それらを横断的に結びつけた結果が、直感。今、自分の意識化にある情報よりも、はるかに膨大な情報の結びつきからもたらされる。

考えることをやめ、感じることにフォーカスする。思考と直感のバランスを取るということ。「腑に落ちる」という感覚を信じられれば、余計な選択で、誤ることは少なくなる。「何かが違う」。その感覚は、正しい。

時に、立ち止まるという選択もあるだろう。しかし、それはそれで、必要なとき。直感は、信じなければ始まらない。それは、自分を信頼することと同じことだ。

近づきすぎると

誤解されることは、多い。特に、相手が近いほど、近づきたい相手ほど、誤解される。近づきすぎると、遠くなる。これは、言いえて妙。「得れば、失う」という関係に近い。つまり、得なければ、失うことはない。

たとえば、恋人には別れがつきものでも、友人関係に絶交は、めったに無い。近づきすぎない距離が、逆に失わないことになる。これは、実態の話ではなく、考え方の話。世の中のすべてのものは、自分のもの。

実は、そういってのけることもできる。手にすると、その瞬間から失う不安が付きまとう。しかし、いつでも手に出来ると思えば不安はない。そう、焦る必要はない。いつでも、手に入れることが出来るのだ。

そもそも、すべては自分のものであって、それでいて、自分のものではない。これくらいの心持ちが余裕を作る。そして、その余裕が実際にモノを近づける。そして、実際、手にしたときに冷静さを失わない。

執着や固執はしないから失う不安はない。ただ、大切に思う気持ちと感謝がそこにある。手に出来ないことを悔やまない。悩んだり、不安になったりする必要はない。

近づきすぎたら、遠くなる。適度な距離感と冷静さをもって受け入れよう。

空~感傷

近所の河川沿いのジョギングコースにトレーニング用の施設がいくつかある。そのうちのひとつの腹筋用施設に、寝転がって、ストレッチをしながら空をみる。

いわゆる大人になってからというもの、日常的に外で寝転がって空をみることは少ない。初めて、そうして寝転がって空を見上げたとき、その開放感がなんとも気持ちが良いと感じた。

この感覚は、大人になったからなのか。大人になると、感傷的になってしまうのか。始めは、そう感じたが、その後、実際はそうではないように感じた。当たり前で自然なことから遠ざかっていた。

ただ、それだけのような気がしてきた。様々な観念や経験が、本来の姿を見えなくする。その「作られた世界」と「自然な世界」。そのギャップがあるから、感じる感覚。

空や雲や太陽といった自然は、昔から何も変わっていない。「当たり前のように、ずいぶん長く、本来の姿から離れたところにいたんだな」開放感を実感するという感覚に、なんとなく、「中心」とのズレを感じてしまう。

どっちにも寄り過ぎない真ん中。自然は、いつもその位置にある。何から守るつもりなのか、過剰なまでに身に付けた鎧兜。外に寝転がって、見上げる空は、余計な鎧兜を外すことを促してくれる。

それでも、充分に生きていけることを、感覚的に実感させ、安心させてくれる。

誘惑の選択肢

「これで手を打ってみたらどうだ?」そう言われているかのような選択肢が、突然目の前に現れてくることは珍しくない。本当に望んでいるものとは違うけれど、条件的には悪くない(ように見える)。

そう感じて、思わず手が伸びそうになる。急がば回れ。貧乏人の銭失い。こうした経験が無かったわけではない。この誘惑に対する毅然とした対応。それが、試されているような、そんな気がする。

自分のスタイル、ポリシーがあるなら、それは、断固として守り通す。その意思が、見えなかった道に光を照らす。お金が無い、時間が無い、今の自分には不釣合い。それは、自分が勝手に作り上げた妄想にすぎない。

「この誘惑に勝てるか」「お前の意思は、確かなものか」そういったテストのようなものに対して、ふと我に返るかのように冷静になれるか。回り道を選ぶのは、他の誰でもない。

目的に向かってまっすぐ向かうのも自分。余計な条件は、妄想。本当の自分に向き合うこと。それが、できるかどうかが、最初にある。

「同じ事をやってはダメ」

「同じ事をやってはダメ」この言葉足らずなメッセージは、真意を理解されず誤解されることが多い。「それって、もうあるじゃん」こう表現されることもあるが、これは、紛れもなくドリームキラー。

これを真に受けると、可能性の芽を摘んでしまう。同じものがいけないのではない。「同じメッセージ」であることがいけないのだ。ホンダもトヨタも車を作っている。どちらかがダメか?そんなことはない。

それぞれに発しているメッセージが違う。つまり、ターゲットとしている層が違う。つまり、商品やサービスの見た目ではなく、そこから得られる感情に目を向けたメッセージ。

「安心感」を得たい人と「こだわり」を感じたい人。それぞれに、求めるものは違ってくる。同じ目的の商品でも、メッセージが違えば、それは、まったく異なるものといっても過言ではない。

逆に、メッセージが同じならば、その商品が、特別魅力的には感じにくい。「どんな感情を満足させたいのか」そこにフォーカスすれば、メッセージは見える。同じであることの評価は、それからでも遅くない。

ドリームキラーの言葉に対して、メッセージの違いを応える必要はない。それは、往々にして徒労に終わる。自分の信じたことを粛々と続ける。それだけで充分だ。

自分クリエイト

インターネットは、何をもたらしたか。それは、多くの「ねばならない」の壁を崩した。判らないことを調べるには、知っている人に聴かねばならなかった。

個人の情報を発信するには、特定の業者を経由しなければならなかった。そして、そうしたことをするには、それなりの時間もお金も、支払わなければならなかった。そして、インターネット最大の貢献。

それは、価値観を発信するという特権を、特定の人に限定しなくなったということだ。これは、価値観の多様化と表現され、ロングテールという現象を生み出してきた。

となりのラジコン好きのオジサンが、世界のラジコン好きを魅了する情報を発信する。お弁当レシピの情報発信が、普通の主婦をカリスマ主婦への導いていく。価値観を発信することは、特権ではなくなった。

「国民、総アーティスト化」と表現してもいいだろう。これは、逆の言い方をすれば、個人の価値観を表現するべき時代が来たといえる。どんなニッチな分野の価値観でも、世界規模にみれば、それなりの数になる。

その価値観を待っている人が、どこかにいる。どんな状況の人でも、発信できる価値はある。それを、体系立て整理することが創造(クリエイト)だ。はじめよう、「自分クリエイト」。

世界は思っている以上に、そう遠くないはずだ。

ありがとう

そのミスを責めるものはいないだろう。ロランは、こういった。「決して失敗しないものは、何事も成さないものばかりだ」そのステージ上がるという事。そして、その役を買って出るということ。

そこにいく勇気も気力も才能も持たぬものは、そこに上がるものを責める資格はない。そもそも、この世の中に失敗というものは存在しない。もし存在するするならば、それは諦めたとき。

諦めなければ、それは失敗ではない。成功に大きく一歩近づいた証にすぎない。人には、それぞれステージと役割がある。自分には、そのステージに上がる気力はあるだろうか。

その役を買って出る勇気はあろうだろうか自分は、チャレンジしているだろうか。自分は、諦めてはいないだろうか。チャレンジするその姿は、そう自問自答する機会を与えてくれた。

多くの学びと感動と勇気を与えてくれた。無限の可能性ということを教えてくれた。何よりも、そのことに心から感謝したい。

気付きのフィードバック

人は、諭されることや非難されること嫌う。だから、人の欠点を指摘しても、それを機会にして改善されることは、まずない。では、どういったとき人は改めるのか。それは、「気付いた」ときにしかない。

自分で「気付いた」ときに、はじめて人は改める。だから、人を動かすことを強引にしたり、無理矢理、首根っこを捕まえて引っ張ることはできない。

たとえ、それをやったとしても、それは、プラスの効果をもたらすことは少ない。「気付き」を与える方法のひとつに、フィードバックという方法がある。

これは、自分自身が相手の鏡となり、相手の考えを引き出し、気付かせる方法だ。決して、難しいテクニックではない。ただ、相手の話を受け入れ、促すだけだ。自分の意見や主張だけが、この方法の障壁。

いかに、「聴けるか」というところがポイントになる。しかしながら、他人がそうだとするならば、自分自身も、もちろんそうであるということ。

自分自身も、いかに多くの気付きを得れるかが、自分の理想の結果と成長を得るためのカギだ。「周囲に起こる事象は、鏡である」と認識し、それが、自分にとってどんな意味があるかを考える。

このほんの少しの行為が、大きな気付きを与えてくれる。うまくいかないときは、その方法ではダメだというサイン。自分の主張ではなく、周囲のメッセージを受け取る。そのフィードバックの感じ方が、成否を分ける。

隠された前提

ほんのわずかな出来事の中にも、行動することの重要性を感じることができる。たとえば、依頼されたことに対して、当然のように判りきったことのように感じること。

この作業を自動化したい。この部分を保障する保険が欲しい。顧客のこうしたニーズには、必ずといって良いほど、「裏のニーズ」が存在する。

そういったことを、広く聴き確認しないで準備すれば、「全然、こちらの事情をわかっていない」となる。こうした当然のことのように感じる部分は、「隠された前提」と表現されることもある。

前提がそもそもズレていることによって、それに基づく成果物も異なってくる。「隠された前提」「裏のニーズ」を確認するには、一見遠回りのようであっても行動してみることだ。

判りきったことでも聴いてみる。この姿勢で取り組んだとき、顧客の意外なニーズに気付くことも少なくない。聴き方には、配慮が必要だ。方法は、大きく2つ。

1.こちら側の前提を明確にしてぶつけてみる。2.顧客の言葉を掘り下げて聴いてみる。

顧客が、「~に困っている」と言えば、「どのように困っているのですか」と聴いてみる。顧客が、「~が問題だ」と言えば、「なぜ、問題なのですか」と聴いてみる。

一見、無駄にも思えるような、こうした質問をあえて行ってみる。この小さな行動やワンクッションの取り組みが、大きな成果を生むことは少なくない。

一番、怖いのは「思い込み」。ボタンの掛け違いは、早い段階で掛け直そう。