「答え」に出会う場所

「今」の積み重ねが、未来を作る。このことは、理解している。しかし、普段の生活の中で、「今、この瞬間」を意識することは少ない。

こうしたらああなる、だからこうしよう。こうだったから、今度はああならないようにしよう。ひとつひとつの行動は、未来を予測したり、過去にならったりしている。

今、この瞬間のやりとりであるスポーツさえ、先を予測して不安になったりする。それが、「集中できていない」状態であり、いかに、「今、この瞬間」を意識することが難しいかわかる。

「今、この瞬間」に向き合うことは、過去や未来に基づく、思考をやめること。それは、自分の「中心」と向き合うこと。この方法として、瞑想があげられるが、どうしても雑念というのが、沸き起こってくる。

その雑念を排除するのではなく、「中心」からのメッセージとして受け止める。そこで、「思考」を絡ませない。ただ、「受け止める」だけに留めておく。それが、自分自身との対話となる。

いわゆる、「悟り」というのは、こうした境地の先にあるのではないかと感じる。答えは、外の世界にあるのではない。常に、自分の中にある。「今」を意識することは、自分自身を意識すること。

それは、すべての「答え」に出会うこと。そうした時間を、少しでも持ちたいと思う。

回り道の弊害

回り道の方が、安全に見えることがある。欲しい結果にまっすぐ進めば、結果は早い。それが判っていても、「探り」をいれてしまう。

「探り」とは、そこからある反応を得て、それから、結果を予測してみようとするもの。これは、そもそも「探り」に対する「反応」という、予め想定したシナリオがあって成立する。

しかし、現実にはシナリオどおりにはいかない。なぜなら、それ自体が自分の価値観で作られるからだ。そのシナリオに間違いが無いなら、そもそも、選択を欲しい結果に向ければいい。

この矛盾した「回り道」は、ある感情に基づく。それは、失敗に対する「恐怖」。失敗することを恐れるあまり、なるべく傷つかないように振舞う。

しかし、実際は、その振る舞い自体が、うまくいかない結果を導くことも少なくない。まずは、一度まっすぐぶつかってみる。そうすると、意外とうまくいくことがわかる。

不安や恐れが、まったくの取り越し苦労だとわかる。そして、まっすぐぶつかった方が、たとえ、期待した結果でなくとも次の道は見えやすいもの。

余計な詮索をめぐらせるのはやめよう。まっすぐ欲しい結果に進む選択が吉となる。

願いの形

数年前に願っていたこと。そのメモを眺めていると気付く。思っていた形とは違えども、いろいろなことが、実際に実現している。当時は、これが実現できれば、もっと幸せになれるし満足できると思っていた。

しかし、それを手にしている現在では、さほど、そういった実感はない。なぜならば、今の状況は状況で、異なる次元の悩みや問題を抱えているからだ。何かを手にしても、新しい問題を探す。

本来ならば、問題にしなくてもよいのかもしれない。人間の欲求は、尽きることがない。ならば、いつ理想的で充実した生活が手に出来るのか。おそらく、そう感じている以上は、死ぬまで手にすることはできないのだろう。

幸せや充実感は、「今」感じなければ、将来、それを感じることはない。「今でも、充分に充実している。でも、もっと充実するためにはこうする」こうした考え方は、いつも幸福感をもたらす。

「幸せだから笑顔になるのではない。笑顔でいるから、幸せになれる」この順序を忘れてはいけないのだと思う。願いは、いつか叶う。しかし、それと幸せを感じることは別だ。そうだ、今、充分に感じよう。

言い訳には、意思を被せる

「自分のしたいことをしていいな」そう思われることは、少なくない。働く日も、仕事も比較的自由がきく。それでいて、生活もそう悪くない。周囲から見ればいいこと尽くめにも見えるらしい。

しかし、本人にしてみれば悩みは尽きない。「隣の芝生は良く見える」の典型だろう。ただ、本当は、どんな芝生にするかは、自分で決めなければならない。

自分は、サラリーマンだから・・・、自分には、資金がないから・・・。理由は、いくらでもあるだろう。しかし、真実は、「自分でそれを選んでいる」。サラリーマンは、みんな我慢しているだろうか。

独立開業したものは、皆親のスネをかじっているだろうか。○○だからという理由の多くは思い込みに過ぎない。そして、その思い込みは、誰にでもある。もう少し資金があれば、もう少し時間があれば。

思わずそう感じてしまうことは、よくある。そのとき、必ず自分に問い直すことにしている。「それは、真実か?」そして、その多くは真実ではない。自分で、枷(かせ)をはめている場合がほとんどだ。

そして、今、それをしないでいることも、また、自分の選択なのだと理解するようにする。何もかもが、事を急げば吉という訳ではない。物事には、タイミングや準備というものがある。

理由(言い訳)をつけてやらないことと、あえてやらないでおくことでは大きな違いある。もし、自分がグズで言い訳を言い始めたら、まずは、グズあるべき理由があるはずと考える。

なぜなら、本当は出来ない理由などないからだ。今は、待つべきとき、そうすべきとき。そうした意思を持てば、前向きになる。言い訳を立てるくらいなら、意思を示す。これが見苦しいかどうかは他人の判断。

そこに、自分の意思が明確にあることが大事なのだ。出来ない理由などない。あえて、そうしているのだ。次の一歩は、ここから始まる。

収まる場所をつくる

重い腰が上がらない。やらなければならないのに踏み出せない。そういうときがある。実は、その先にあることや、その内容が、よくわかっていることほどそういうものだ。

そういうときは、勢いに任せて、まず始めに「器」を作ることから始めるといい。「器」とは、それを入れ込むもの。モノであれば場所、書き物であればノート。とにかく、そのモノのための「場所」を作る。

場所を作ったら、それをしばらく放置するつもりでもいい。しかし、実際は、放置できなくなってしまうもの。人は、もともと「空白」というものを嫌うらしい。空いていれば埋めたくなる。これは、本能のようなものだ。

本棚に空いた場所があれば、埋めたくなる。空の花瓶がおいてあれば、花を挿したくなる。だから、まず始めに「空白」を作る。つまり、「場所」であり、入れ物「器」だ。

書かなければならない原稿があれば、題名を書き込んだファイルやフォルダを作ってしまう。そして、その「器」や「場所」が空白であることを、なんとなく意識してみるようにする。

自然と埋めたい衝動に駆られて動き出せば成功。あとは、勢いにのってやり遂げられる。できないのは、能力が無いからではない。

ただ、きっかけがないだけかもしれない。そのきっかけづくりのための「空白」。先に、収まるべき場所を作ってしまおう。

原因を探れ

事象を改善したい場合の方法として、事象を抑えこむという方法がある。病気治療に用いられる対症療法がそれだ。しかし、この方法には弊害がある。原因を取り除かなければ再発する。対症療法の欠点は、これだ。

すべての事象には原因があるという。期待した事象を結果として受け取れていないなら、そこには、必ず原因がある。つまり、事象を改善したければ、その事象を引き起こしている原因を改める必要がある。

しかし、原因というのは、直接的でない場合も多い。たとえば、目の疲れが肩に来る場合がある。いくら肩をほぐすという対症療法を行っても、目の疲れを改善しなければ解決しない。

何か期待しない事象があった場合は、そのものだけではなく周囲を確認してみる。そこに、何か極端なものがあれば、それが怪しいと踏んでみるのも手だ。

そして、全体のバランスを整えるように、活動を改善するように試みる。これは、身体に関することばかりではない。あらゆる事柄に通じる考え方だ。うまくいかないのには原因がある。

その原因を他人や周囲に押し付けていては、物事は決して改善しない。何かが気になれば、気にしなければいい。極端にいえばそういうことだ。黙って自分でやってみればいい。

原因は、その人ではなく、自分の捕らえ方ひとつだったのかもしれない。対症療法におぼれてはいけない。原因を取り除けば、改善の質とスピードは速まる。

プロトコル

上司や経営層への報告や承認。そのための資料づくりは、実務部隊にしてみれば、厄介に感じるかもしれない。しかし、この報告や承認を怠れば、その後々の影響や作業増のリスクが増す。

管理者といわれる職責をもつ人たち。特にリーダーとよばれる部長職の仕事はこれ。80%以上は、経営の舵取りに影響を与える、適切な報告と承認だといっていい。

内容が把握できないからといって、この仕事をマネージャーや実務部隊に投げるのは失格。その部長は、職責を果たしていないといえる。そして、部下にこの仕事を丸投げすると、必ずいっていいほどしてしまう失敗がある。

「話が通じない」ということだ。いわゆる経営層と実務層では、話している言葉が違うと考えていい。それは、どちらが優れているとかではなく、必然的に、同じ視点で物事を見ていてはいけない。

だから、経営層には、経営層の視点があって、そのプロトコルに合わせなければ会話が成立しない。部下に丸投げすれば、当然それはできない。部下は、実務視点で見るのが仕事だからだ。

このプロトコルをあわせる役目が、経営層と実務層の間にいるリーダー(部長)だ。このプロトコルを合わせるという思考を持たない上司をもったならば部下は苦労する。

いつまでたっても、どんなに資料を作っても、経営層と実務層との橋渡しが出来ないからだ。仕事の内容が悪いわけでも、部下が頑張っていない訳でもないのに伝わらない。

伝わったとしても、判断の視点がズレて伝わり、意図しない方向からの指示を受けたりする。怪しいなと感じることがあるなら、報告資料を確認してみるといい。

部下からの資料がそのまま使われていれば、それはプロトコル変換がされていない証拠。「仕事をしていない」と指摘するのは無理でも、「このまま出すのはどうか」と助言することはできる。

同じことを伝えるにも、相手の視点に合わせる。プロトコル変換が必要ということを考慮しよう。

他人のことはよくわかる

ビジネスやプライベートにおいても、他人の事について、よくわかり見えるもの。一方、自分のこととなると見えないことが多い。ビジネスのことなどの相談を受けると、はじめに自然とやることがある。

それは、思考することではなく、湧き出てくるものを感じようとする姿勢。ここで、何も湧き出てこなければ、その原因のひとつは、情報不足にある。

その情報不足を補う質問を繰り返せば、そのうち、湧き出てくる「何か」がある。それが、具体的な形を成してくればOK。ほとんどのケースはこれで対応できる。しかし、自分のことになると、これが難しくなる。

湧き出てくるスタンスの前に、思考が入ってしまう。どうしても、フラットな状態におくことができない。これは、実に厄介なものであり、悩みでもある。

他人のことはよくわかるのに、自分のこととなると、なぜこうもグダグダなのか?この悩みは、特別ではないだろう。多くの実績を積み上げてきたマスターたちは、これを克服する術を後世に残してくれている。

「もうひとりの自分」客観的に自分自身を見つめるもうひとりの自分。それを、作り上げることができるかどうか。もうひとりの自分は、理想の自分といってもいい。それは、つまり、理想が具体化した姿であるといえる。

そのもうひとりの自分が、自分の所作をチェックする。それは、まさに第三者を見るような視点でみる。そして、適切なアドバイスをし、受け入れる。

そこには、自分と、もうひとりの自分との、完璧な信頼関係が前提になければならない。コミュニケーションの重要性は、他人との間のもの以前に、自分との間にある。弱みもあれば、強みもある。

得手不得手もあるから、理想もあれば現実もある。自分を理解することは、自分をごまかさないこと。自分を知ることは、それ自身が強さに繋がる。

これは、具体的でありわかりやすい基準だ。「もうひとりの自分」との信頼関係を見つめなおそう。

鐘という存在

ある画家は、対象物を描くとき、そのものを描くのではなく周囲を描けといった。これは、実に真理を表している。モノというのは、それ自体では形は見えてこない。周囲との関係の中で、見えてくる部分が必ずある。

それは、物質だけとは限らない。自分という人が、どういう人間か。それは、周囲との関係で見えてくる。他人との会話の中で感じることがある。行動を共にすることで見えることがある。

人格というのは、鐘のようなもの。打ってみて、その響きを聞いてこそ、その鐘のもつ魅力というものはわかる。鐘は、自分ひとりでは響くことはない。

つまり、打って響くという状況というのは、他人の反応というバチがあってこそ。その響きが多岐に渡れば渡るほど、自分という存在が、明確に自覚されていく。人間が、社会性を必要とする理由だろう。

自暴自棄になって犯す犯罪は、自分の存在を知らしめる行為そのもの。自分という鐘の打ち方を間違ってしまう。そして、ゆがんだ響きの中で自己を確認する。人というのは、鐘のようなもの。

周囲があって、はじめて自分がわかる。これは、人は決してひとりでは生きられないという証でもあるのだろう。

心の荷物

世の中は、誤解だらけだと思う。多くの人は、本当のことを知らないだけなのに、自分の価値観に照らしあわした判断をしている。すごいスピードで追い越していった車。もちろん、危険極まりない行為だ。

頭にもくるかもしれないが、その車が急ぐ本当の理由は判らない。もしかしたら、子供が危篤なのかもしれない。もし、そうだとしたら怒りの感情は出てこない。人である以上、完璧ではないのは自分も同じ。

我儘な一面や嫌な一面が垣間見えるのも同じだ。たとえ、その行為が個人的なものだとしても、一時の感情に流された行為だったとしても。人の人生には、見えない部分がある。それは、近くても遠くても同じことだ。

相手を思いやっての行為のはずが、まったく逆に取られてしまうことすらある。こうした誤解は、心の余計な荷物となって溜まる。荷物の積み重ねは、時に虚像をも作る。

「本当のことは判らない」このことを前提にすれば、自分の身の回りに起こる多くのことは「許せる」はず。もし、どうしても許せないならば、相手を受け入れる姿勢で真実を確認する必要がある。

人を威圧するような行為は、その人にとって防御の現れに過ぎないかもしれない。あの人が、自分の前から立ち去ったのは、避けたのではなく、自分を想ってこそかもしれない。その解釈が、間違っていたとしてもいい。

その真実が、確認できなくてもいい。そうして、許す行為が自分をも浄化してくれる。心にある余計な荷物は、自分で降ろすようにしよう。