体内制御

人間の身体には制御できる部分と出来ない部分がある。腕を動かすことは、自分の意思で行うことが出来る。しかし、心臓の鼓動を自由に変化させることはできない。また、足を早く動かして走ることはできても、汗の出方を自由にコンロールすることはできない。

身体というのは、本人の意思とは無関係に、その統一性を維持するために機能している。では、その身体の内部活動は、まったく意思の及ばない領域なのだろうか。いや、そのための重要な方法がある。それが、「呼吸」だ。

どれだけ息を吸い、どれだけ息を吐くか。それを制御することはできる。そして、その呼吸によって、内部活動を、大きく変化させることもできる。まず、リンパの流れが変わる。

リンパは、血液に匹敵する体内に流れる液体で、人間の身体の80%は水ふだと云われる所以でもある。リンパの流れが滞れば、様々なところに弊害が出てくる。ちょうど、河川にゴミがたまってあふれ出すように。

そして、呼吸は、同時に精神を安定させる。精神の安定は、思考を明晰にしてくれる。つまり、より、「正しい」選択が可能になる。「意識的に」呼吸をするという動作は、自分と体内を繋げるコミュニケーションツールといえる。

振り返ってみてほしい。昨日、どれだけ意識的に呼吸をしたか。「息をしている」状態では、コミュニケーションは、成立していない。意識的な呼吸。つまり、腹式呼吸で長く息を吐くということ。

それは、身体の状態をよい状態に保ってくれる。そして、確実に集中力を高めてくれる。集中力は、重要?改めて訊くまでもなく、それは、理解することができるだろう。

美学

理想の自分になりたい、目指したいと思うとき、大切なことは、それを具体的にイメージすること。これは、巷にある、いわゆる成功哲学系の書籍には、必ずといっていいほど、書かれている内容。

しかし、この表現だけでは片手落ちの感が否めない。なぜなら、理想の自分を描いたとき、その状況は、常に成果を堪能しているときだろう。たとえば、釣りのプロが理想ならば、表彰台の上の自分や、雑誌の表紙を飾る自分など。

その状況を具体的に思い描くことは、とても意義のあることだが、それだけでは足りない。「具体的に」描いていることにはならないからだ。「具体的に」描くならば、表彰台の上のとき以外の自分は?電車に乗っているとき、車に乗っているとき。

もし、自分が理想の自分になったとしたら、どんな態度を取るだろうか。車の運転をするだろうか。眠ったフリをするだろうか。割り込みをさせないように車間を詰めるだろうか。欲しい結果があるならば、まずは手に入れてみる。欲しい自分に積極的になってみることだ。

それは、ひとつの「美学」といえるかもしれない。正しい「美学」を持つことは、理想の自分への到達を早める。尊敬する人を思い描いてみるといい。きっと、ある種の「美学」を見ることができるはずだ。

ガラスのプライド

プライドというのがある。それは、どんな人にもあるだろう。そして、そのプライドは、時に傷つく。いや、傷つかないプライドなどない。問題は、そのプライドが傷つけられたとき。そのときに、どう対応するかが自尊心を守る。

自尊心を失えば、悲観的になる。そして、時にうつ病的な症状も見せ始める。自尊心を保つために必要なことは、「プライドを傷つける言動」の捉え方。いや、実際には、「プライドを傷つけるようにみえる」言動だ。

プライドが傷つけられ、バカにされたと感じたとき。その多くは、「勘違い」であることが多い。多くの人は、他人のプライドを傷つけることより、自分を誇示したいという感情の方が強い。

だから、悪意を持って相手を傷つけようとする以外は、ほとんどの場合、「自分を誇示する」ための行動だ。しかし、そうした言動を受けた人は、「プライドを傷つけられた」と感じてしまう。「人を馬鹿にしようとした行動ではない。自分を認めて欲しいということなのだ」

そう理解して、相手を「認めて」あげよう。それが精神的に一段上の対応だ。それが出来れば、相手の自尊心は満たされる。そして、自分のプライドは傷つかない。他人が、自分をバカにしてると感じるのは勘違いだ。勘違いでストレスを感じていては人生は疲れるばかり。

精神的に一段上に上がって対応しよう。「大人の対応」をすれば、もっと楽になる。

向上に喜びを

人類が、文化を作り出すことができたのは、想像力を働かし、向上心を忘れなかったから。想像力と同様に、向上心もまた、人間特有の能力であり、それに喜びを覚える。人が、充足感を得たと強く感じるのは、金銭的なものや物質的なものよりもむしろ向上。

マズローの欲求5段階説も、それを証明している。人類が、精神的、文化的に進歩すれば、集団の中での親和性や自己実現を求めるようになる。向上心に喜びを覚えることは、人類にとって、最高の快感といってもいいかもしれない。

そして、向上する過程では、失敗もあれば反省もある。あのとき、こうしておけば、ああしておけば。後悔や反省が気持ちを暗くすることがある。しかし、それは、昨日の自分よりも、今日の自分が向上している証拠である。

反省することが、多いということは、それだけ、自分自身が大きくなっているということ。それは、暗くなるべきことではなく、むしろ、最高の喜びを感じるべきことでもある。そして、その学びを得たことに感謝し、それに、係わってくれた人や事柄に感謝する。

たとえ、望みどおりの結果が得られなかったとしても、そこから、学び取れることを感じ取り、喜びを実感しよう。不要な事柄は、目の前には現れない。自分の目の前に現れることは、常に、ベストな状態で現れていることに気付くことだ。

宝の持ち腐れ

まだ、初心者だから。使いこなせないから。使う道具について、こういった理由で妥協してしまうことがある。もし、その道具を使う世界で、それなりにやっていこうと考えるならば杞憂だ。

たとえば、初心者用の道具を使うことは、自分が初心者であることを認めることになる。事実、そうなのかもしれないが、上達のスピードの観点からすると疑問だ。環境が人を作る。アイデンティティが人を変える。

こういったことが言われる理由には根拠がある。役割を与えられた人はスタンスが変わる。スタンスが変われば態度が変わる。態度が変われば結果が変わる。たとえば、幼い頃は野球選手に憧れて、自分が、その選手になったように振舞える。

しかし、大人になるに従って、自分が演じることに条件を付けるようになる。これができなから。このレベルじゃないから。恥ずかしいから。非難を浴びるから。「だから、自分はこれでいい」こう自分自身に宣言した時点で、現実も「これでいい」レベルに収まってしまうもの。

だから、道具については、はじめから自分の納得いくものを選択する。自分の理想とする姿になったとしても、使い続けるであろう道具をはじめから選択する。高価な道具を使えといっているのではない。はじめから、信頼できる道具を使うということ。

これを、道具に過信すること同じと理解してはいけない。「宝の持ち腐れ」とは、役に立つものを持ちながら使わないこと。信頼できる道具を使い続けることは、「宝の持ち腐れ」にはならない。演じることで、「宝を使い倒す」。

理想的な結果を手にするための、大切な黄金律のひとつだ。

ランチェスターを活用する

ある市場における勢力地図が変わろうとするとき、その背景にある、それぞれの戦略を推し量ってみる。すると、面白いことに気付く。そこには、ランチェスターの法則が見え隠れする。

ランチェスターの法則。それは、概ね強者のための「強者の戦略」と弱者のための「弱者の戦略」に大別される。強者の法則とは、高度な武器を駆使し、空中戦や飛び道具を主体とする戦法。対して、弱者の法則とは、地上戦で、1対1でぶつかり合う戦法。

織田信長の桶狭間の戦いは、弱者の法則を活用した。湾岸戦争の多国籍軍は、強者の法則で圧倒的な勝利をえた。あるチャレンジに対して、今自分の立場は強者か弱者か。その分析は、嘆くためではなく、戦略を選ぶため。

競技の世界でいえば、強者の法則は情報合戦かもしれない。対して、弱者が勝利するためには何をすればいいのか。地上戦に持ち込み、1対1の勝負に持ち込むためには?その地上戦で勝利を得るために必要なことは?

それは、大勢に従って動くことではない。小さくセグメント化された局面で、圧倒的なスタイルと自信を持つこと。そして、強者がその脅威に気付く頃には、時すでに遅しの状態を作り出す根気を持つこと。

そのために必要なことは、自分自身に対する圧倒的な信頼だ。

悪いことは起きる

どうして、こんなに運が悪いんだろう。そう感じることがある。いいことばかり起こる人。悪いことばかり起こる自分。実は、そう感じているだけで、実際には、悪いことばかりではないはずだ。

しかも、「悪いこと」というのは、本当の意味では悪いことではない。失敗の中に成功の種が隠されているように、悪いことの中には、学びの種が隠されている。

学びを得る必要があるから、悪いことが起きる。だから、学びを得なければ、似たようなことが何度も起こる。いつもお金のトラブルに巻き込まれる。いつも男女のトラブルに巻き込まれる。

その「悪いこと」から学びを得ない限り、同じようなトラブルは、起き続ける。だから、今、目の前に起こった悪いことを、二度と起こしたくないなら、学びを種を探すことだ。

学びを得ると、その類のトラブルはなくなる。そして、また別の学ぶべきことが隠された「悪いこと」が起きる。言い方を変えれば、学び続けて学ぶことが少なくなれば、悪いことは起きなくなる。

なぜだか、悪いことが起きると感じているなら、まずは、この学びの種を探してみることだ。驚くほどの好転ぶりに驚くだろう。そして、すべて自分次第なのだということも実感することができる。

「理由」の持つ力

どうすれば、うまくいくのか。どうすれば、期待通りの結果を得れるのか。ある場面にたったとき、まず、はじめにある質問の傾向だ。

こうした質問に対し、まず伝えるべきことは、「なぜ、それをするのか」。「方法が、判ればできる」。そう感じるかもしれない。しかし、目的を見失わないために必要なのは理由。

大切なのは、HOWよりも、WHY。WHYがあってこそ、HOWが活きて来る。「どうすれば、釣れるのか?」。その前に、「なぜそこで釣るのか?」。この答えが無ければ、本当の意味での「どうすれば」はない。

WHYの前に、HOWはいらない。WHYの力は、目的や目標への道を示してくれること。なぜ、ここで釣れると思うのか?流れ込みがあって、酸素量も豊富だから。高気圧の張り出しで、タイト&スローだから。・・・だから、どうする。

漠然とHOWを模索するのはやめよう。WHYの答えをつなぐところに結果がある。「理由」の持つ力は、想像以上に大きい。まず、WHYから入る思考法をマスターすることだ。

中国に許由

いろいろなモノに囲まれていると、いつの間にか、モノに支配されてしまう。その自覚がなければ、何かをしようとしたときに、それが足カセになり、可能性を阻害する場合もある。

携帯電話はなくても生活できるし、実際してきたが、今となっては、携帯がない生活は考えられない。釣りも同じように、この道具でなければ、釣りは成り立たないというモノは何一つない。

しかし、モノを中心に考えることが習慣となると、それ以外の可能性を自ら見ようとしなくなる。中国に許由という人の話が、現代まで、滔々と言い伝えられている。

中国に許由という人がいた。その人は自分の身に付けた貯えも無く、水も手で掬い上げて飲んでいた。それを見ていた人が、ひょうたんを与えた。

ある時、木の枝にひょうたんを掛けていると、風に吹かれてやかましいといって捨ててしまった。そして、また手で水を掬い上げて飲むようになった。どんなにか彼の心の中は清々しいものであったことだろう。

・・・・

この短い物語が、現代まで語り継がれる理由は?この許由という人の生き方に学ぶべきところは?おそらく、誰も彼を取り込むことも、惑わすこともできない。

本当の意味での「強さ」を、ここに見ることができる。自分の弱点を自分で作るようなことを避けて、楽しめることを、ただ純粋に楽しんでいきたいと思う。

ダイヤの原石

「何か状況を変えるには、新しいことを」。良く陥りがちな考え方のひとつだ。ビジネスであれば、新規顧客獲得や新規ビジネス。個人に関しても、何か新しい取り組みやジャンル。新規顧客を獲得するには? 新規のビジネスを立ち上げるには?こうした相談をうけたとき、必ずこう応える。

「まず、今あることを、もう一度見直してください」

新規に何かをすることは、期待度も大きいが、同時にリスクや労力も大きくなる。一般的に新規の顧客獲得に要するコストは、既存客に販売することの6倍だといわれる。

既存の顧客や仕組みや取り組みで、掘り下げたり横展開は図れないか。この視点を持つことが大切だ。新しいことは、既存顧客の満足度を向上したり、今あるスキルや技術を極めた先にあるもの。

そうした取り組みを続けていれば、価値のある新しいことに自然と出会うことが出来る。新しいことに目を向けるあまりに、今あることをおろそかにしていないだろうか。

ダイヤモンドの原石やそれに繋がるヒントは、常に足元に埋まっていることを知らなければならない。