意思のサイン

物事を推し進める推進力がないのは、そこに明確な意思がないからだ。意思のない存在は、意思あるもの動かされる。結果的に、「やらされている感」がぬぐえず、不満やストレスを感じながら行うことになる。

意思を表明することに、抵抗感を覚える人は少ないないだろう。しかし、明確な意思を表明し始めると、ある法則があることに気付く。意思が正しい方向性を持っているならば、いとも簡単に受け入れられるということ。

その意思の表明の連続は、自分で人生を歩む足音を聞かせてくれる。良い事をしようと肩肘を張る必要はない。他人の視線や評価におびえる必要はない。

心の奥の良心から発せられるメッセージは、常に正しいメッセージを伝えてくれる。そのメッセージを受け取れる状態。その心の状態を保つことが大切だ。

枝葉末節な出来事に振り回され、時間に終われるような生活もあるだろう。しかし、必ず自分ひとりの時間、精神的に落ち着ける時間を持つことだ。出来ればノートに向かい、そこに今の感情ややりたいことなどを書く。

ただ、思いつくままに書き続けてみる。それぞれの関連性や文章の出来は気にしない。そこにあるキーワードから、糸を手繰るように、言葉が繋がっていく。

その工程をやり終えたとき、意識の明晰さを感じることができるだろう。それが、「意思のサイン」だ。思いをめぐらすことは、時に混乱を招く。だから、書き出してみることで整理する。

意思のサインを行動に変える。それが、物事の結果をも明確にしてくれる。

勝てる理由

負ける理由は、敵が強いからではない。己の力を過信して、我を見失っているからだ。人は、勝つための方法は考えるが、負けないようにするための方法は考えない。孫子は、それをこう説いた。

「負けない理由は、我にあり。勝てる理由は、敵の中にあり」。勝つことばかりを考えると、必要以上の攻めをして、疲弊してしまう。

勝てる理由は、敵の自滅にある。それを誘い出すための「負けない理由」。勝つための方法という視点ではなく、負けないための方法という視点。

敵が「勝つための方法」に万進する一方で、負けないための方法で対抗する。これは、決して「攻め」を否定することではない。自滅に追い込むまでの「過信」を否定している。

勝てる理由は、敵の中にある。自分の実力を最大限に活かすために、身の丈や実力を知ることは大切なこと。必要なリスクはとっても、ギャンブルをしてはいけない。「過信」は、ギャンブルを誘発する。

だから、負けない理由をしっかり認識しておく。それが、勝てる理由に結びついていく。この二つの理由が共鳴したとき、期待した結果を得ることができる。

強みを活かす

たとえ、同じメッセージを発したとしても、それを捉える人の価値観で受け止め方は異なる。人ぞれぞれに価値観が異なるのは、それまでの経験に基づくものを礎としている。

だから、その違いを正そうとしたり、自分の価値観を押し付けることは為にならない。たとえば、チームで行動しているとき、リーダーのメッセージへの反応は二極化する。

メッセージに共感する人と共感しない人。共感しない人を皆無にすることは不可能だし、全体的にみれば、そういう人も必要だ。だから、共感しない人を嘆いたり、その人を無理やりどうにかしようとしないことだ。

「弱みを克服する方法は、強みを強化することである」。目を向けるべきは、「共感する人」だ。たとえ、それが一人でも構わない。共感する人に目を向け育てていく。

やがて、そのエネルギーは広がっていくものだ。活動には、批判や妬みなどの、負のエネルギーが出てくることもあるだろう。全員に響くメッセージや活動など存在しない。批判は出てきて当然のことだ。

逆に浸透率が高まれば、批判も増える。批判は、浸透率のバロメーターと思えばいい。批判やバッシングを全く受けないタレントは、逆に熱烈なファンも、圧倒的に少ないものだ。

強みを活かす視点を持つ。それには、マイナスをプラスにする力がある。

捨てる

浪費するものといえば、お金や時間。お金や時間以外にも、知らず知らずに浪費しているものがある。エネルギーの浪費。ここでいうエネルギーとは、体力的なエネルギーのことではない。

集中力を司るような精神エネルギーだ。精神エネルギーの浪費は、混乱を招く。これが、なぜか仕事に集中できなかったり、なかなか成果に結びつかなったりする要因となる。

その対策として有効なのが、「捨てる」という技術と取り組みだ。たとえば、不要なものを溜め込んだり、そのことに意識を奪われると時間は分断される。分断された時間で成しえることは小さい。

いつか使うだろうとしまいこんだもの。その「いつか」が、訪れることはない。煩雑な机の上やフォルダは、集中すべきことを拡散させ見えにくくする。

「捨てる」という行為のメリットは、そこに新しい空間を作ることだけではない。その「不要なもの」にエネルギーを浪費しないため。物理的に不要なものを捨てると、精神的なエネルギーも整理され集中してくる。

そして、「分断された時間」は、「まとまった時間」となって、成果に結びつく。現代が、情報化社会といわれ久しい。イヤでも情報が入ってくる時代だからこそ、「捨てる」技術が求められる時代。

「新しい時間を作る」ことよりも、「不要なものを捨てる」方が簡単で早い。簡単なことから始めよう。

無言の強者

速く行動を起こすことは成功の条件で、グズは、悪しき習慣だいわれる。一方で、性急さは事を仕損じる、最大の要因とも云われる。良い結果をもたらすための迅速な行動と、事を仕損じてしまう要因の性急さ。

この行動の違いを明確に分けるのは、「平常心」のあり方にあるいえる。性急さと平常心は、相容れない。平常心を失いかけているときに、「すぐに行動しなければ」と感じたら黄信号。

一旦、立ち止まって深呼吸し、平常心を取り戻す時間を持つ価値は高い。しかし、焦りやイライラの状態から、平常心への切り替えは簡単なことではい。

だからこそ、普段の生活の中においても、平常心であることを心がけることが賢明だ。何気ない行動ひとつひとつ、目の前の事象ひとつひとつに平常心で応じる。

その訓練は、いざというときの誤った判断を未然に防いでくれることとなる。割り込みや店員の不躾な対応、他人の言動に、とにかくイライラしないことだ。

常に平常心であって、受け流そう。人生には、それ以上の事件や出来事は、これから先、いくつも待ち構えている。そのために試されているのだと思い起こして、些細なことで、平常心を失わないこと。

自意識過剰な「反応」に気付くこと。他人と勝負し続けていく人生は虚しいもの。勝負する相手は、常に自分でありたい。そして、平常心であることが、自分自身への勝利のひとつであると感じよう。

平常心は、無言の強者だ。

目標探し

成功哲学の書籍には、必ずといっていいほど、目標設定とそれへの集中が説かれている。それは、ときに目標設定されない人生は、まるで意味の無い人生であるかのようでもある。

実際に、自分自身がそうであったように、目標設定がうまくできない人も少なくないだろう。目標設定できないことへの罪悪感のようなものすら感じることもあった。

しかし、ある考え方に出会ってから、その罪悪感や焦燥感から開放された。「自分は、何をするべきか。それを探すことこそ、人生の目的だ」自分自身をよく理解しなければ、真に腑に落ちたミッションには出会えない。

だから、自分のライフワークに、早い段階から出会えた人は運がいい人。人生の目標に出会うコツは、何事にも、その意義と目標を感じること。

コンピュータープログラムを書いている、3人のプログラマーがいた。3人に同じ質問を投げかけてみる。「あなたは、何をしているのですか?」

一人目「生活費を稼いでいるのです」。二人目「プログラムを作っているのです」。三人目「顧客を煩わしい手続きから開放してあげるのです」

夢や目標は、必ずしもウォルト・ディズニーやヘンリー・フォードのように壮大である必要はない。「今」への自分自身の取り組み方や考え方が、その人の目標の大きさや、出会い方を決める。

「いつも世界平和の事を考えているのですか?」。マザー・テレサは、こう応えたという。「私は、目の前の人を助けることを考えています」。何事においても、出来ない理由は、周囲や環境にあるのではない。

トルストイはいう。「人はみな世界に変化を求めるが、自分自身は、変えようとはしない」。そして、鉄鋼王カーネギーはいう。「上に上ろうとしない人間を、はしごの上に押し上げることはできない」。

今日の成功は、明日の敵。満足することなく、はしごを上ろう。

孤独

「孤独は、神に与えられた時間」人は、孤独を感じたときに、初めて神の存在を噛み締めるという。枝葉末節な出来事に奔走している日常で、神様の存在を感じることなど、ほとんどない。

しかし、砂漠でひとり彷徨っていたとしたらどうだろう。神様にお願いしたくなる感情が沸き起こってくる。孤独を痛切に感じ始めたとき、人は、神や自分の存在について思い巡らせる。

その思い巡らせる時間は、「神に与えられた時間」。「そんな時間は、ムダだ」科学者は、そう言うかもしれない。しかし、科学は、「どのように(HOW)」という疑問には、応えてくれるが、「なぜ(WHY)」という質問には応えてくれない。

「人間や宇宙が、どのように存在するのか」。科学は、その質問に応える準備は十分にある。しかし、「なぜ、人間や宇宙が存在するのか」。この質問に応えるための準備は持ち合わせていない。

この「なぜ」に応えるのは、科学の役割ではなく、哲学の役割。「なぜ」という質問に応えるには、人類という枠組みを超えて「感じとる」以外にない。その感性を磨く部分が、「神に与えられた時間」。

社会や学校や会社、そして科学者は、その必要性も重要性も、教えてくれることはない。それを、否がおうにも感じさせてくれるのが、「孤独」という状況であり、その時間だ。経営者ともなれば、孤独はつきもの。

しかし、孤独を感じることに後ろめたさは必要ない。それは、神に与えられた時間であり、森羅万象を「感じ取れ」というサインだ。

その時間は、小さなことに拘っていた自分や、いらぬ心配や不安を感じていたことを気付かせてくれる。孤独を感じることは、決して悪いことではない。人生や生き方に深みを与えてくれる。孤独、上等。

ビジョンを彫る

日本の企業の多くは、行動規範はあれど、ビジョンやミッションの考え方に疎いところが多々ある。自分の限界を超えて、大きな目標を達成するには、明確なビジョンというものが必要だ。

ビジョンといえば、理想を語る人もいるが、ビジョンとは、より具体的なイメージをいう。自分のビジョンであれば、何を着て何を食べ、何を語っているのかを具体的にイメージすることだ。

ビジョンという概念は、決して新しいものではない。夏目漱石の夢十夜の中で、運慶は、仁王像を彫刻することをこう表現している。

「像を彫ろうとしてはいけない。木の中に埋まっているその像を掘り起こすのだ」これは、ちょうど砂の中に埋もれた石を掘り返す行為に似ている。

その姿は、すでにそこにあるという考え方。それほどまでに、具体化されたビジョン。だからこそ、修正の利かない彫刻の世界で、臆することなく見事な仁王像を掘り出すことが出来る。

ただ、ビジョンだけでは目標は達成できない。それを実現するための「技」と「機会」が必要だ。そのために常日頃から技を磨き、わずかな機会をも見逃さないようにする。

ビジョン、技、機会。この3つを高次元で達成したものが、俗に言う「天才」といわれる人たちであろう。技の習熟度は、描くビジョンに比例する。何よりも、まずはビジョンを描くこと。

今、そこにあるように錯覚するほどの具体的なビジョン。砂の中には、どんな石が埋まっているだろか。それを考えるだけでも、楽しくなる。

役割

自分は何者?自分自身に、この質問をしてみたとき、おそらく、多くの答えがあるだろう。それは、多くあって当たり前、人は、たくさんの「役割」を持って生きている。父親、夫、課長、組合長、etc。

こうした日常の生活の中での役割の他にも、目指している役割もあるはずだ。歌手、作家、社長、プロ~、投資家、etc。この自分の果たすべき役割、果たしていきたい役割は、明確だろうか。

そして、それらの役割ごとの目標や理想像は、明確であって、その取り組みは行っているだろうか。何かの役割を果たすために、何かの果たすべき役割を犠牲にしてはいないだろうか。

8つの分野での目標達成が、人生を充実させるように、果たすべき役割を十分に全うすることも人生を充実させる。これらの役割は、自分のアイデンティティに繋がる。

そのアイデンティティは、態度を変え結果を変える力を持つ。だから、役割を明確にするときには、「どんな」役割なのかを決めておくことが大切だ。

たとえば、父親という役割を明確にするならば、どんな父親になることが理想だろうか。歌手という役割を与えたいならば、どんな歌手という役割を与えたいだろうか。

「役割」という観点から、目標を設定して、その役割を全うするための活動計画を立てる。1日の中で、いくつもの役割を演じる過程がある。どの役割も、必ず周囲の「期待」というものがある。

その期待以上の役割を演じることができたなら、自分だけではなく、どれだけの人たちを幸せにできるだろう。自分の演じるべき役割と理想。この機会に、勇気を持って描き出してみよう。

ブランド

消費が低迷していく中、企業として生き残っていくために必要なこと。商品価値やレベルの差だけでは選ばれない。なぜ、それを選ぶのかの理由が必要だ。

その効果をあからさまに示してくれるのが、その企業や商品の持つ「ブランド」だ。ブランド戦略は、ますます重要性を増している。

ブランド力を打ち出せないコモディティ商品は、価格競争を強いられ、苦労ばかりが絶えない。逆に、ブランド力があれば、自分の土俵や得意なやり方で勝負できる。

ただの石コロでも、そこにヴィトンの文字があれば、そこに共通的な価値が生まれてくる。ブランドとは、そのステークホルダーに対して、共通的な認識や価値を持ってもらうこと。

客、従業員、株主というステークホルダーが、認知し、共感し、納得できるブランド。それを築けているところは強い。だから、商品そのものの良さよりも、ブランドイメージを伝えることの方が反応はいい。

欲求に訴え、購買につなげられるのは、商品力よりも、ブランド力によるところが大きい。さらに、使ってみて質も良ければ、顧客満足度は向上し、ファンを作ることできる。

ブランドという概念は、企業や商品だけではない。自分自身をブランディングするということもできる。同じ仕事や作業を行うにしても、自分ブランドをイメージして取り組みを行う。

それは、いつしかブランドとして周囲に浸透し、いざという時に白羽の矢が立つことになる。ブランドコンセプトの時代。自分をいかにブランディングするかが、腕の見せ所であり、楽しめる部分でもある。