他人の助言

他人からの助言を受けるケースがある。その受け方は、時に予期せぬ方向や、期待に反する状況で受け取る場合がある。気分のいい助言ばかりではないだろう。むかつく助言であったり、イラつかせる助言かもしれない。

しかし、そのタイミングが意外であればあるほど、その助言には、「意味」があると考えた方がいい。間違ってはいけないのは、決して、その人自身に矛先を向けないことだ。そういう場合、往々にして悪気はないもの。怒っても仕方が無いし、意味の無い場合も多い。

その言葉の「意味」をきちんと感じ取るために、そういうときは、こう考えることにする。「誰かが、それを彼に言わせている」自分自身に何かを知らせるために、その人を使って、その言葉を語らせている。そう考えると、怒りの感情は出てこない。

冷静に、自分にとってどういう意味があるのかが考えられる。そのメッセージに思いをめぐらせて、何かに思い当たれば、それはとても大きな収穫だ。感謝の気持ちが沸き起こってくるだろう。

人は、ひとりで生きているわけではない。必ず、誰かと係わりながら生きている。自分が他人にとって意味があるように、他人も自分にとって意味がある。すべての係わり合いには意味がある。

メッセージを感じ取れる鋭敏さを持って、常に、冷静に、寛容であることが賢明だ。他人の助言から「メッセージ」を感じ取ろう。

3つのチカラ 5つの武器

経済至上主義の崩壊。目まぐるしく変化の激しい時代。それぞれの個のチカラがモノをいう時代。それは、個のチカラの発揮が望まれる時代。それは、個が意思を持って選択する時代。

それぞれの心の在り方こそが、すべての根本であり、すべての礎になる。どんな時代でも、自分の足で歩く。流されない生き方、流れを作る生き方。兼ね備えたい3つのチカラがある。

構想力。想像力を豊かに物事を力強く描くチカラ。人間力。周囲を味方にし、多くの助けを得ることができ、チームの力を最大限に引き出す感性のチカラ。行動力。完成のイメージと精神エネルギーを昇華させ、物事を推進し貫徹する決意に満ちたチカラ。

そのチカラを支えるため、「5つの武器」を、常に磨いておきたい。信条。自ら築き上げた信条は、ストレスに対応するための壁となる。知恵。知識と経験の積み上げが、的確な知恵やアイデアを与えてくれる。

直感。鋭い勘がもたらす分析力は、決断力を高め、決断は自由を与えてくれる。精神エネルギー。精神的、肉体的健康は、強い精神エネルギーとなり必要なものを的確に引き寄せるエネルギーとなる。

自尊心。自己の中心にあるものへの自信と信頼は、振り回されない確固たる自尊心を与えてくれる。自分ひとりだけではなく、それぞれの人間の係わりがあること。そして、人間だけでもなく、大いなる自然と係わっていること。

それぞれの個が「調和」することで、それぞれのチカラは、さらに増幅していく。自然との対話の中では、ありのままの自分を映し出してくれる。それは、時に自分の武器が、錆び付き始めていることを気付かせてくれる。

真剣だからこそ、気付きがある。本気だからこそ、気付けることがある。時に、哲学者であり、そして、常にバカモノであり続ける。熱中できることに出会えたことに感謝。すべての係わる人たちに感謝。

最良の結果

どんな天才であっても、才能があっても、はじめたすぐに結果を手にした人はいない。天才が天才である理由のひとつは、決して、「諦めない」ことにある。そして、他人が「失敗」と認識したとしても、諦めないかぎり、失敗ではないことを知っている。

物事を成すには時間がかかる。その理由は、すべてにタイミングがあるからだ。「あなたは、山をも動かすことができる」キリストは、すべての人にそうした力があるといった。しかし、「どれくらいの時間がかかるか」については、言及していないし、何も語ってはいない。

そして、神は常に、自分が欲する、「欲しいもの」を与えてくれるわけではない。神が与えてくれるのは、「最良のもの」。就きたかった仕事に就けなかったのは、それが、「最良」ではないからだ。別々の道を歩むことを選ぶに至ったのは、それが、「最良」ではないからだ。

「欲しいもの」や「欲しい結果」が得られないのは、決して、諦める理由にはならない。もっと、「最良の結果」のための通過点に過ぎない。だから、たとえうまくいかなったとしても、落ち込んだり、悩んだりするのは止める事にしよう。

その先には、「最良の結果」が待っているし、そのタイミングを計るための時間が必要なだけなのだ。うまくいかなったとき、失敗だといわれたとき、そのことを期待して、ワクワクしてみるのはどうだろう。周囲からは奇異な目で見られるかもしれないが・・・。

癒しの空間

ストレス社会を反映して、癒しが注目される。アロマやマッサージ、音楽など、癒しの方法は様々。本来の「癒し」とは何か。それは、緊張やストレスの開放。緊張やストレスを開放するエネルギー。ヒーリングなどのそういったエネルギーが心身を癒す。

つまり、アロマやマッサージ=癒しではない。どういったときに、開放感を感じられるか。それは、個々に違っていていい。その人にあった方法があってしかるべきだろう。自分には、どんな方法があっているか。それを簡単に見つける方法がある。

それは、「遊び」に没頭してみること。そもそも、ヒーリングのエネルギーと、遊びのエネルギーは、とても似ているものだという。だから、生活の中に「遊び」を取り入れてみる。ただ、その取り入れ方は大胆に行う。要するに、「本気で遊ぶ」ということだ。

それが、無駄だとか損だ得だの解釈はいらない。大事な瞬間に集中力を発揮して、自分の能力を最大限に活用したいと思うなら価値はある。そういったときのために心身を開放するときを持つ。それがあるから、頑張れるという状況がある。

「癒しの空間」とは、作られたものでなくていい。本気で遊べば、そこが「癒しの空間」になるのだから。

パラレルワールド

パラレルワールドという話を聞いたことがある。それは、並行して存在する世界。次元の違う世界という表現されSF的ではるが、そういった話も物理学の世界では証明されつつあるという。しかも、その世界は、無数にあるという。

面白いのは、それが同時に進行しているということ。そして、自分の意識というものは、その世界と世界を瞬間的に移動することもできるという。自分の過去を振り返ってみて、自分自身が変わったなと感じるときはないだろうか。

このパラレルワールドを信じるならば、まさに、その瞬間が転換のポイントだったのではないだろうか。今まで、ネガティブだった自分がポジティブになった。その瞬間に自分がポジティブである世界に変わる。だから、一方ではネガティブな自分の居る世界が存在する。

つまり、過去の自分は自分であって、もはや自分ではない。パラレルワールドの概念にあてはめればそういうことになる。「過去の自分と今の自分は別人である」それを前提とするならば、自分以外の人もそうである。

もし、過去に許せない人がいたとするならば、その人は、もはや今のこの世界には存在しない。だから、今目の前にいる「許せなかった」人は、別の人。そう考えれば、またゼロから関係を構築することもできる。

自分の望む世界は、パラレルワールドのどこかに存在する。パラレルワールドの概念や理論を信じるならば、その望む世界に転換するには、意識をそこに向けるだけでいい。

物理学で議論される多次元の世界と、思考が現実化するという成功哲学の理論。それが、どこかで繋がったような気がした。

白黒

物事に白黒つける。そうしなければ、気がすまない人たちもいる。しかし、実際には、白黒つけられるものなどない。どこかに必ず、他の要素を持ち合わせている。自分という人間を見てみても、決して、白黒つけることはできない。

マジメに仕事をするという一面もあれば、ハメを外して遊びたいという一面もある。ひとりの人間の中にもこうした多様性がある。だから、何かが起こったとき、起こるとき、必ずこうだ、こうあるべきだというものはない。

こうあるべきだと決めるのも自分であって、決めたたから決まっただけだ。それは、自分の中で白黒つけただけであって、そのものを本質的に白黒つけたことにならない。だから、他人にそれを押し付けてはもめるだけ。

交通事故にも、夫婦ケンカにも、その理由に、一方的なものは、まずない。結局のところ、白黒などつけようがないのだ。それをやろうとすると、ストレスになる。他人との軋轢を生む場合もある。だから、白黒はつけようとしないことだ。

「そういうこともある」それを自分なりに「解釈」すればいいだけのこと。自分の中にも多様性。もちろん、他にも多様性。だから、世の中は面白く、そして発展する。

きっかけ

問題が出てきたり、やる気が急になくなっていったり、日々の生活の中では、様々なことが起こる。普段の毎日は、定型的に流れていくもので、毎日、目新しいものが起こることの方が珍しい。

その分、ちょっとした変化や問題が、何か、とても大きなことに感じてしまうことがある。そういったことに直面すると、まず感じるのは面倒だなということ。その気持ちの奥には、「いつものペースの邪魔をするな」という思い。

しかし、逆の見方をしてみれば、そのきっかけはありがたい。今の自分の状況に大変満足しているならばいい。もし、そうでなければ、今の自分を創ったのは、過去の自分の選択の積み重ねだということを知らなければならない。

つまり、未来の状況を変えたければ、今の選択や習慣を変えるよりほかの方法はない。その「変えるきっかけ」になるのが、問題や障壁だ。自発的に習慣や選択を変えることは、正直難しい。だからこそ、そのきっかけを「怪我の功名」と考える。

問題を解決するための方法は何か。それを行うために決断するべきことは何か。その小さな決断が、未来の状況を変えてくれるかもしれない。その背中を押してくれるきっかけに対して、積極的に対面しようとするだけで、世界は変わる。

重い腰も、実はそんなに重いくないかもしれない。せっかくの機会、やってみることにしようではないか。

2つの原則

人生には、2つの原則しかないという。ひとつは、「存在そのものにすでに価値がある」ということ。つまり、生きてるだけで、儲けモンということ。「この人生に意味はあるか」と考えることがある。答は、人生に最初から意味などはない。

その意味を与えるのは、いつも自分だからだ。確実にいえることは、「価値がある」ということ。その人の言動がどうであれ、その人に係わる限り、そこには、何かしら「解釈の異なる意味」が生じる。それだけでも、価値があるといえる。

そして、もうひとつほ原則は、「投げたボールの種類は、変わらない」ということ。ボールとは、つまり感情。カベに向かってボールを投げれば、そのまま返ってくる。相手を敵視しながら対応するならば、相手からは、必ず否定的なボールが返って来る。

この真実は、相手のボールに本当は意味はないということだ。敵視しているから、ボールの解釈は否定的になる。本来、人は、他人をコントロールすることはできない。コントロールすることができるのは、自分の感情だけだ。

つまり、投げるボールだけが、唯一コントロールできること。にもかかわらず、自分の投げるボールを選ぼうとしない。それが、多くの人の不安や悩みの原因となっている。手にしているボールが意図しているものと違うなら、2つの原則に立ち返って見直してみる。

自分には、何もしなくても価値があるという自尊心。そして、ボールの種類は、自分で選べるということ。「自分は、何を望んでいるのか」ボールを選ぶことは、その答となる。

芸術

なぜ、人間にとって芸術は必要なのか。生きるために、どうしても必要な衣食住。それさえあれば、芸術などいらないではないか。そういった考え方は、はっきりいってつまらない。

芸術といってしまえば大袈裟な印象もあるが、洋服にも音楽にも好き嫌いがあることと同じ。要するに、多様性の表現が芸術であり、それは、人間だけが持つ価値観であるともいえる。

その中でも、脳に癒しをあたえるのは、論理的なものに対して、情緒的芸術だといえるだろう。それ自体には、明確なメッセージや意味を感じ取れない。しかし、それに触れると自分の経験や感情が反応する。

その反応には、理由や原因が掴みにくい。絵画や文学に触れると、何かいいと感じるとする。「何がいいの?」と問われても、明確なものはない。そして、その良さは、人それぞれで異なる。その遊びと奥行きの深さが芸術が芸術たる所以。

その「良さ」を感じるという意味では、自然の木々や生物も、また芸術だといえる。なぜか心が休まる、安心する。それは、心に反応している。意味があるとかないとか、損とか得とか。そうした考え方では、割り切れないもの。

それが、本来人間の求めているものと気付く。美術館などにいかなくても芸術には触れられる。そう、釣りに出かけて湖上に浮くだけでいいのだ。

約束

お金を万能ツールとして理解すると、大きな間違いを犯してしまう危険がある。お金は、それ単独では決して万能ではない。お金は、一定の「約束」の上に成り立っている。

100円玉を100円の価値として互いが信頼し、それ相当の価値のものと交換する。そこには、「信頼」がベースにある。たとえ、10円のパンがあったとしても、それで、お腹を壊すならば一銭の価値もない

たとえ、10円のペンがあったとしても、一文字も書けないならば一銭の価値もない。100円には、100円の価値が約束され、それを信頼するからこそ成り立つこと。その約束の冴えたるものがブランドだ。

ブランドは、「信頼された約束」であるといえる。お金は、その信頼関係を便利にするツール。単なる道具に過ぎないと理解することができる。つまり、金銭授受には「約束」と「信頼」がある。

会社は、仕事という約束の上に給与を支払う。その額は、約束の度合いの表れである。では、どうすれば自分の受け取る額を引き上げることができるだろうか。

このお金と信頼の関係が理解できれば、その答えを想像することができる。「自分の行う約束の信頼度を上げる」。この信頼の関係がビジネスそのものだ。そして、その関係が受け取る額を決める。

対して、お金がすべてを解決するというスンタス。このスタンスの脆さを露呈した昨今の経済状況。お金だけがオンラインで流通しているのではない。

社会の根底には、「信頼関係」があることを忘れない。