鷹の寿命

鷹に関する記事について、伝え聞いた。中国に伝わる鷹の寿命に係わる話。鷹の寿命は、70年。しかし、40年を過ぎた頃に岐路に立つ。羽は重くなり、ツメは伸びすぎる。くちばしも下に垂れて、うまくつまめない。

この状況を甘んじて受け入れるか。打開するための行動に出るか。受け入れれば、待つのは死ばかり。打開するためには、努力するしかない。努力を選んだ鷹は、150日間ツメを研ぎ続け、次の150日間は、くちばしを打ちつけ削る。

そして、次の150日間は、重くなった羽を一本一本抜き取っていく。こうした覚悟を持ってして取り組んだ鷹は、その後も、30年生き続けることができるという。この例え話を人間でいえば、学習や修練することに匹敵するだろうか。

人の世で言えば、時代は変わっていく。研いできた爪も甘くなるし、誇ってきた知識も陳腐化する。そういった状況を、学習や修練で打開していく。それは、今の自分にとって、とても大変なことで、特別なことのように感じてしまうかもしれない。

しかし、そうしてきた人たちにとってみれば、本当は、特別な世界ではないかもしれない。カモメのジョナサンは、老人たちの制止を振り切って、新しい境地へと旅立っていった。

しかし、その境地は、そうしたものたちが普通に暮らし、あれほど苦労した、食べることにも困らない世界だった。世の中への不平不満に巻き込まれることなく、覚悟を持って、自分のための一歩を踏み出そう。

個性の作り方

自分は、どんな人でありたいか。それは、自分で決めることができる。人には、いくつもの役割というものがある。父親、夫、上司、部下、経営者、etc。それぞれの役割において、自分に課すべきものは変わってくる。

そのとき、自分を何と呼ぶか。それは、アイデンティティとも呼ばれる。アイデンティティとは、様々な変化や差異に抗して、連続性、統一性、不変性、独自性を保ち続けること。

つまり、武士というアイデンティティがあれば、「武士に二言はない」という行動規範がある。行動規範は、様々な状況における判断の基準となる。そこに、連続性や統一性が生まれていく。そして、それが個性となって自分をつくる。

自分に、どんなアイデンティティを与えるか。それは、自由に決めることができる。そして、それは誰にも宣言する必要はない。自分で決めるだけでいい。どんな父親でありたいのか、どんなビジネスマンでありたいのか。

「自分は、行動派ビジネスマンである」。「自分は、ビジネスクリエイターである」。こうしたアイデンティティは、自分の理想を描きやすくしてくれる。それは、「自分の枠」を超える手助けをしてくれる。

今の自分にどんなサブタイトルをつけたいか。それが、アイデンティティとなる。楽しむ感覚で、やってみる。それは、いろいろな気付きを与えてくれる。

自分が、人生の主役であり、演出家であり、また、監督であることにも気付くことができる。要するに、好きなようにできる。

三国志の将

三国志に代表される中国史の魅力は、そのスケールの大きさにある。ひとたび遠征となれば、ゆうに日本縦断の距離を進行しなければならない。だからこそ、「戦略」がものをいい、戦略は、単なる陣営だけでは話にならない。

兵糧やその運搬、その補充ルートの確保など戦そのものよりも、準備の方が勝敗を分ける。もちろん、兵力も重要だけれども、軍師の存在価値も高くなるのもうなずける。

戦略、兵糧、兵力。この3つのバランスは、欠かせないうえに、それらを生かす地の利や天の時も、また重要な要素となる。自分の器を信じ、時に降ることも辞さず、転々と渡り歩き、天の時を待った劉備。

才を重んじ、優秀な人材を集め常識に囚われず、登用することで兵法を極め続けた曹操。仁と義からなる人の和、地の利を生かし、曹操を苦しめ続けた孫権。それぞれにそれぞれの方法があり、誰が誰の代わりができるものでもない。

この3人が、三国志の舞台にあがったのには、それなりの理由があるのだろう。そこに見えるのは、「自分を知る」ということ。そして、世の中の流れに合わせて、時を得るということ。

それが、将として必要な才であり、戦略も兵力も、その上にうまくのるかどうかだ。身の丈にあった、戦略、必要な兵糧。そして、それを実行するための武器や兵力。今、向かおうとしている方向に、うまく乗れているか。

あまりにも、理想を追求しすぎてはいないか。何かうまくいなかいと感じているならば、まずは、自分を知ることに立ち返ってみよう。その判断の基準は、とても簡単だ。

「腑に落ちるかどうか」ただ、それだけに気持ちを傾けてみればいい。そして、それに気付いたなら、一度、勇気を持って、その手を離してみることだ。

自分の枠の超え方

不思議なもので、人というのは、自分の決めた枠内に収まるように行動するものだ。たとえば、心のどこかで、貯金は不要、効率が悪いという思いがあるとする。

当初から比べると、収入は3倍近くなっても、余裕のある生活というには、なぜか行き着かない。貯金が出来そうになると、支出がかさみ、結果として、いつものとおりにしか残らない。

これは、「何かを買う」ということばかりではなく、車をぶつけるなどの事故でもお金は出て行く。「金持ち父さん」のキヨサキ氏は、お金持ちと一般人の違いのひとつを次のようにいう。

「お金持ちは、必要なものを支払ってから税金を支払う。そうでない人は、税金を支払った残りで必要なものを買う」この話は、キャッシュフローの話だが、「自分の枠」の話で考えても同じではないかと感じる。

いつもどおりの額以上を残したいなら、はじめに、自分のセルフイメージを変えるしかない。それを行わないならば、優先順位を変える。心のどこかで、「条件」をつけてしまっている、「やりたかった」ことに、最初に着手してみることだ。

それが、意外と出来てしまうことを知ると、自然とセルフイメージも変わってくる。「自分は、このくらい」と感じている観念の枠。それを超えてこそ、自分の理想に近づける。

ある検証では、平均点が60点の生徒は、90点を取ると、次は30点を取り平均に落ち着くという。心のどこかで、明確な理由もなく、そこには、出来ないと感じている何かが必ずある。

まずは、その枠を超えてみてから、それが当たり前のことだと感じてみることが大切。それがセルフイメージを変えることになり、自分の理想的な未来を作ることに繋がる。

面接攻略法

日中の街中で、就職活動中らしき学生を良く見かける。自分が、管理職の立場で面接をしていた頃を思いだす。新卒面接や中途面接などずいぶんとこなしてきた。学生の集団面接などでは、ほとんどの学生は、自己PRで似たような応えを用意していた。

「自分は、リーダーではないが、間に立って問題を解決する立場だった」9割がこう答えるが、では一体誰がリーダーで、いつも問題を起こしていたヤツは、どこにいるのか?と思っていた。面接では、とても大切なことがある。

それを知らず、勘違いしてしまうと失敗する。それは、「答える内容の成否は、問われない」ということ。学生の答える内容が正しいとか、間違っているとか、そんなことは、採用する側にとってはどうでもいい。

なぜならば、所詮学生の持っている知識や経験などは、参考材料にはなったとしても実際には使えないと判っているからだ。では、何を見ているのか?面接に限らずだが、人は「雰囲気」を見ている。

話す内容より、その人の「雰囲気」で、80%以上の印象や情報を得ているということだ。だから、教科書どおりの回答ばかりでは、その「雰囲気」を出すことも、感じ取ることもできない。「自分の言葉」で語られない言葉は、ゼロに等しい。

でも、「お決まりの回答」を一生懸命に答えようとする。面接官は、「素」がどんな人間かを知りたいと思う。だから、あえて意地悪な質問や答えにくい質問をする。その答え方に「素」が現れるからだ。

ここでも、「その答えの内容」はどうでもいい。会社には、それぞれ異なった文化や色がある。いくら優秀でも、合う合わないがあるもの。「素」が見えなければ、どんな人間かはわからない。わからない人間は、怖くて採用できない。

それを知らずして採用することは、お互いに不幸になることを意味するのだ。「経歴」や「答える内容」の上っ面だけで判断する面接官に出会ってしまったら、お互い不幸だ。自分の経歴を無意味に汚すことにならないように、「素」を表現して、判断してもらうことが賢明だ。

「素」を表現して受からなければ、その会社は、自分には「合わない」ということ。ただ、それだけ。それ以上でも、それ以下でもない。逆に、面接や試験で合格とされても、本当に「素」の自分に合うかどうかを自ら見極める。

状況によっては、自分から辞退するくらいの気概でいい。普段の自分より、よく見せようとするから緊張もする。「素」の自分を見せて、自らも選ぶ気持ちでいれば楽だ。その「雰囲気」は、「わかりやすさ」となって伝わる。

真の面接攻略法は、これに尽きる。就職は、お互いが幸せになるための「縁」。すべては、ベストな状態で動いていると考えることだ。

リラックスの効能

不安や心配は、視野を狭める。これは、経験的にも確実にいえることだ。現状を打破したいという思いに対して、現実に変化がなければ、正直焦る。そして、良からぬ想像が不安をあおり、心配なことばかりが思い起こされていく。

きっと、これまでの人生を振り返れば、決して、不幸なことばかりではなかったはずだ。期待どおりにいかなかったこともあろうだろうが、同じように、不安なことも的中してはこなかった。

にも係わらず、なぜか不安なことばかりが、確実に身に降りかかって来るかのように感じる。心配や不安には、根拠はない。あったとしても、それは「想像」の域をでない。

そして、視野を狭くした結果として、目の前の機会にすら気付かないでいることもある。現状を変えるには、変化が必要だ。変化のためには、思考の切り替えが必要。そして、その気付きのきっかけは、視点の広がりと共に訪れる。

つまり、変化とは、リラックスしたときに訪れる。平常心でいて、リラックスしているとき。その状態こそが、現状打破のカギとなる。不安や心配事が募ってきたら、これまでうまくいってきたことを称えよう。

そして、きっとうまくいくと信頼しよう。それが、自然とリラックスに繋がっていく。気分転換をすること。リラックスすること。心配事があって、不安なときこそ、そんな場合じゃないと感じるかもしれない。

いや、そんなときだからこそ、リラックス。オススメは、お手軽な山登りや散策。もちろん、釣りも抜群にいい。現状打破や変化のきっかけは、いつも手の届くところにあるのだから。

ポジティブとは?

ポジティブとネガティブ。ポジティブ思考はよいと感じているのは、決して、間違いではないだろう。ただ、その定義をどう捉えているだろうか。たとえば、恥ずかしいと感じながら、お年寄りに席を譲るのはネガティブだろうか。

前向きな気持ちと向上心を持って、振り込め詐欺を働くのはポジティブだろうか。自分の感情を中心においているか、行動そのものにおいているか。ポジティブかネガティブかの違いは、そのどちらにも偏ってはいない。

それは、「セルフイメージとの整合性」にある。人間は、本来生まれ持って善悪を判断できる。幼い子は、誰にも教えられなくても、人を傷つけることに違和感を感じることができる。本能的な理性とは、そういうものだ。

そこに、それぞれの持つ「才能」が加わる。「才能」も、また誰にでも備わっている。発揮される場面にあるかどうかは別として。そうした部分から構成されるセルフイメージも、また、人それぞれに持っている。

他人からの感謝や共感に満足感を覚えるのは、セルフイメージとの整合性を表している。つまり、ポジティブとは、「セルフイメージとの整合性を増すこと」。そして、ネガティブとは、「セルフイメージから乖離すること」。

そう定義したとき、そのときの感情や、表面上の行動の善悪も関係なくなる。そもそも、行動の善悪は社会通念が生むもので、それ自体の本質的な部分はわからない。

同郷の志士の非難を浴びながらも、戦を避けようとした龍馬はポジティブだった。そんなスイングではダメだと諭されても、自分流を貫いたイチローはポジティブだった。

周囲の評価や表面上の見え方は関係ない。セルフイメージとの整合性。そこにポジティブさを見出していこう。

経験と引き出し

様々な状況に対応できること。それを、「引き出しが多い」と表現することがある。「引き出しの多さ」は、柔軟に、そして時に奇抜に策を導く。引き出しの多さとは、何に起因するのか。それは、経験の多さに比例すると考えられる。

しかし、実際には、そう単純ではない。「経験の多さ=引き出しの多さ」とは、決していえない。経験の多さを引き出しの多さに繋げる。そこには、「条件」がある。経験の概念を、上げておくこと。

問題というのは、その問題の発生している、同じ概念レベルで解決できるとは限らない。むしろ、抽象的な概念を押し上げることで、解決する方法が見えることは珍しくない。いわゆる、「視点を挙げる」ということだ。

つまり、「犬のタロー」という情報は、「犬」や「ペット」という概念で記録されているとする。そこに、「哺乳類」という概念がなければ、哺乳類で情報を導き出そうとしても「タロー」はでない。

犬のタローという、とても具体的で有効な、情報(経験)が、そこにあるにも係わらず。経験を引き出しとして生かす。それには、経験の概念レベルをあげる必要がある。

何かを体験したり、情報を得たなら、その理解の視点や概念を、一旦上げておく。そこに論理的思考はいらない。むしろ、そうした観念的思考は邪魔なくらいだ。落ち着いて、平常心で視点を上げてみる。

「引き出し」というものは、どこに何があるか知っていなれば使えない。必要な情報を一気に引き出せる。そんな経験の整理を行っておこう。

意味

「これって、意味があることだろうか?」今の自分に思わず問いかけてしまう。そういうときというのは、少なからずある。一方で、この世の中には、「意味のないものはない」ともいう。

問いかけをするのも理解できるし、すべてに意味があることも理解できる。この一見、矛盾したやりとりには、実に大きな「人生の指針」が隠されている。ひとつ目の指針は、これだ。

「意味は求めても、何も返してはくれない」そして、もうひとつの指針。「意味は求めるものではなく与えるものだ」物事や事象というのは、常に中立にある。「中立」というのは、「意味はない」ということ。

たとえば、「リストラ」という事象。「もう生きていけない」という意味を与えれば、それは、「もう生きていけない」事象になる。「好きなことに挑戦する機会」という意味を与えれば、それは、「大きなチャンス」という事象になる。

意味があるか?と問えば、それに意味を与えるのも、また自分。「意味がない」という意味を与えれば、それは、「意味がない」ものになってしまう。

世の中に偶然はなく、無駄はないと理解するなら、そのものに、どういった意味を与えるのが得策か。こう考えると、自分の人生というのは、やはり、自分の選択の手に委ねられていると気付く。

常に、他人の評価を「意味」とすれば、他人に自分の人生の舵を握らせることになる。ストレスというのは、こうした状況に生まれる。意味をどう与えるか。それは、全て自分が決めればいい。

「我が為すことは我のみぞ知る」坂本龍馬は、周囲の不理解や評価に対して、こう言い聞かせたという。そう、自分の人生を歩むことに、誰かの理解や承認は必要ないのだから。

観念の再定義

世の中で、たったひとつだけ変わらないものがある。そう仮定するとするなら、それは何か。それは、「変化すること」。「変化すること」こそが、変わらないこと。

つまり、常に状況や環境は変わり続けている。しかし、なぜか自分のこととなると、ずっとこのまま続くのではないかと錯覚する。むしろ、変化することを拒む傾向もある。

果たして、これは得策だろうか。自分は、変わりたくなくても、確実に周囲の状況や環境は変わっていく。こうした状況の中で「安全であること」の定義は、現状のまま、変わらないことといえるだろうか。

一方で、人間というのは変化に敏感である。パターン認識や適応性無意識といった能力が、状況の総合的な判断を可能にしている。それは、会話を交わすことなく一目見ただけで、その人の機嫌が、なんとなくわかってしまうことでもわかる。

そうしたパターン認識の出す答えは、「なぜか?」という理由を答えにくいものばかり。だから、これまで身に付けた観念や思いで、その「なんとなく」に理由付けしようとしてしまう。

その結果として、「現状でいる」」という選択を、してしまうということも多々あるだろう。そうした判断や選択を行った場合に、観念なのか、信念なのかを見極める必要がある。その方法が、「感情の見る」ということ。

そこに情熱や安心、ワクワクを感じれば信念。不安、心配、恐れを感じれば観念によるもの。観念によるものと気付けば、その観念を探ってみて注意深く観察する。すると、その観念に明確な根拠がないとわかる。

「仕事は、辛いもの」とかという観念だ。そして、その観念を新しく定義しなおしてやる。「変化」からは逃げつづることはできない。「変化」には、「変化」で対応する。観念の再定義をしてみよう。