評価の姿

世の中には、とかく評価というものがつきまとう。評価というのは、要するに期待値との整合性。どれくらい期待に応えられたかということになる。本来であれば、個人の枠組みの中での評価。

つまり、絶対評価であるべきだ。しかし、往々にして評価というものは、相対的な観点で行われることが少なくない。つまり、「他人と比べてどうか」という尺度。この尺度は、便利なようでいて、くせが悪い。

「他人を勝手に評価することで自分を正当化してしまいたいという衝動」これが、過去に暗い歴史を作ってきたし、自分自身をも、不幸にしてきた。人には、本来、向き不向きがある。

そして、好きなことと社会の期待には接点が必ずある。純粋に、それに目を向ければいい。根拠のないど根性や、苦しいだけの努力は、不毛に終わるだけではなく、誰も幸せにしない。他人の評価は、そもそもが幻想。

自分から、価値を生み出せる方向に進めばいい。本当の評価というものは、その後に勝手についてくるものだ。

休日と休息

休日になれば家族で出掛ける。旅行にいくこともあるだろう。家族旅行にいけば、次の予定や、子供の振る舞いに気にかける。混雑や渋滞にもはまることがあれば、予定通りに物事が進まないことだってある。

たしかに、家族の楽しむ様子は、それだけで、栄養剤になるのかもしれない。しかし、やはり少なからずストレスになることはある。そのストレスが原因となって、旅行中に些細なことでケンカになれば本末転倒。

何のための家族旅行かも判らなくなる。休日を充実して楽しむための方法。ひとつめ、「目的を感情に置く」こと。家族旅行に行くことが目的ではなく、そこでどういった家族の繋がりを実現したいのか。

そこで、自分の欲しい感情は何なのか。それを意識すれば、些細な揉め事はなくなる。ふたつめ、「休息日を予め設ける」こと。休日になると仕事はしなくてもいい。

では、休日は、休息になるか?休日と休息は、別のものだ。仕事をしないこと=休息ではない。それは、外の仕事を持つ人も、家で家事などを行う人にとっても同じ。

日常の生活から少しだけ離れて、自分だけの時間を持つということ。そういった時間を家族と相談の上、予め予定表に書き込んでおくことだ。趣味があれば、それに1日使うのもいい。

ひとりどこかに出かけて、ぶらっとするのもいい。休日の過ごし方、休息の過ごし方。目的の持ち方が違うことを意識すれば、きっと、充実した休みを送ることができるだろう。

バカの道

一生懸命になることが、何だか恥ずかしく思えた頃もあった。「熱く取り込む」ということに対して、どこかで、斜に構えてみることもあった。

しかし、実際にはカッコいいとか、カッコ悪いとかそんな低次元の話ではない。それは、他人の目線から見た話。自分は、どうなのか?楽しくなければ始まらないのだ。そして、一生懸命やれば楽しい。

とにかく、バカになって楽しむことが大事。どんな些細なことであれ、本気で取り組む。学生の頃、それをモットーにしたサークルを作った。

周囲の目は、ときに冷ややかだったが、当の本人たちにとっては、最高に充実していた。社会人になったとしても、それは変わらないはず。趣味でも雑用でも何でもいい。とにかく、バカになって取り組んでみる。

適当の先には、それなりの道しかない。「バカ」の先には、王道がある。「ホント、バカだな」といわれたら、「ありがとう」」と応えるようにしよう。そして、自分を褒めてあげよう。

打てば響く

鐘は、打てば響く。打たなければ、どんな音かは判らない。その響きは、次の音を生み出す。そうして繋がった強弱の音が音楽になる。なによりも、まずは打たなければ始まらない。

それは、行動に置き換えることができる。まず、行動する。それは、誰かに影響を与える。そして、フィードバックを得る。このフィードバックという「響き」は、他のどんな情報やテキニックにも変えがたい。

何か行き詰っているときや、物事がうまくいかないときというのがある。そういうときは、「まずは打つ」。誰かと接点を持って、とにかくコミュニケーション。それは、なんらかのフィードバックをくれる。

そして、それが、次の行動へと繋がる。どうすればいいか迷ったとき、立ち止まって、ふさぎ込んではいけない。その行動に根拠や理由を求める必要はない。とにかく、打ってみることから始める。

何も打っていない自分に気付いたら、まずは、行動に出てみること。それも、直接誰かと接する機会があればいい。そのほうが、フィードバックは早い。フィードバックは、必ずしも助言ではない。

それで、すべてが解決されなくてもいい。次のきっかけになればそれでいい。人生という音楽は、打つことから始まる。そして、その音色は、誰かをきっと幸せにする。

生命の仕組み

生命というのは、何なのか。この偉大なるシステムは、どのように、そこにあるのだろうか?このテーマは、科学者たちを永い間、虜にしてきた。そのひとつの解が、「動的平衡」。

つまり、「変わりながら変わらない」ということだ。身体の細胞は、食べたモノが分解され、それが、あまねく置き換わっていくのだという。尿などで排出されるのは3割ほどで、そのほかは、形を変え細胞に置き換わる。

しかし、昨日の自分と今日の自分は、顔も身体も、変わらない。変わっていながら、変わっていない。つまり、「動的平衡」が保たれている。それは、生命を維持するための方法として、偉大なるものが選択した方法なのだろう。

生命を維持するためには、臓器などの身体を維持しなければならない。身体を維持するには、秩序が必要だ。しかし、秩序の中にも不確実性はある。それを前提として、秩序を保つためにどうするか。

それは、壊し続けなればなならないということ。「秩序を保つには、壊し続けなければならない」偉大なる生命という仕組みは、この原理を我々を教えてくれている。安定を望むばかりに変化を恐れることがある。

それは、この原理から考えれば、逆だ。「秩序を保ちたければ、変化し続けなければならない」何が起こるかわからない不確実性を、恐れるのでなく、それを前提とする。

そして、そのために変化し続けることを選択する。それは、決して恐れることではない。生命が、それを証明してくれている。今日、自分が生きていることがそれを証明している。

雑用の効能

雑用というのは、自然と要領よくやろうと考える。掃除にしても、料理にしても、普段、やらないことをやる機会があればなおさら。こうして、ああして、次はこうする。段取りを考えながら、手際よくやろうとする。

この段取りと手際の良さというのが、脳の活性化に非常に役立つらしい。仕事というのは、いつしかルーチン化しやすいもの。いつもの時間に席に座り、いつもの手順で始まる。その繰り返しは、いつしか無意識となる。

何も考えなくても、自然と身体が動いてしまう。この状態が続いてしまうと、脳は、思考する機能を低下させていく。使わなければ衰えるのは、脳も筋肉も同じ。

何か少しでも使い続けることが大事。だからといって、脳トレに没頭する必要はない。普段やらない雑用を手際よくやろうとする。ただ、それだけでいいのだ。

脳外科医の築山節氏は、著書でいう。「特別なことをしなくてもいい。まずは、雑用からはじめてみよう」急な運動や過激な運動は、身体を壊す。適度な運動を、毎日続けること。それは、脳も同じ。

大切なことは、習慣化すること。雑用を、「余計なこと」とはいわず、その効能の方に目を向けてみる。そうすれば、雑用といえども、ずいぶんと、はかどるはずだ。たかが、雑用、されど、雑用。気分転換にどうぞ。

睡眠の効能

「寝ないで仕事する」この響きに、熱心さや優秀さを感じるだろうか。もし、そうであるならば、不要な観念をひとつ持っているかもしれない。睡眠とは、身体を休めるためだけではない。

実際、レム催眠中は、脳は活発に活動している。何をしているのかといえば、「情報の整理」をしているのだといえるだろう。眠っている間は、五感は機能停止中。つまり、新しいインプットがない状態といえる。

だから、情報の整理がスムーズかつ効率的に行える。情報を整理すれば、物事の関連性も整理される。思いつかなかった考えや解決策が、眠っている間にもたらされることは珍しくない。

睡眠時間を削減するということは、シャットダウンしないパソコンのようなもの。メモリ内もハードィスク内もゴミや隙間だらけ。何をするにも遅く、非効率になってしまう。

パソコンでいうならば、メモリーの開放とデフラグ。脳は、それぞれの情報の関連性まで認識するから、その曖昧処理稼動は、パソコン以上の稼動負荷だろう。人間が人生の1/3近くを睡眠に費やすことの意味。

睡眠という危険な状況をあえて選択し、進化し続けたということの意味。人間は、眠らなければならない。積極的に充分な睡眠をとるようにしよう。それこそが、優秀さや熱心さの表れといえる。

怪物退治

時として、人は得体の知れない怪物を作り出す。誰に教えられた訳でも、明確な根拠もなく。その怪物とは、「訪れない未来」。ビジネスの展開などを考えるとき、多くの人は「早く早く」と焦る。

その様子に対して、「なぜ、急ぐのか?」と訊く。その問いかけに対して、彼らはこう応える。「こうしなければ、こうなる」「こうならないために、こうしなければならない」「本当に?」と訊く。

その答えは、想像や思い込みからくることばかり。その理由のほとんどに明確な根拠はない。そして、実際、現実に起こることは、「こうしたからこうなった」ということの方が少ない。

その得たいの知れない怪物に、急かされる意義は、本当にあるだろうか。全くない。ゼロだ。それよりも、本当にやるべきことを考えること。本当に必要なことに目を向けることが賢明だ。

そして、必要なことをするためには時間が必要だ。その必要な時間を省略してはいけない。たとえば、競合が現れるから早くと思う。しかし、競合とは何かが曖昧なことが多い。競合は、マーケットによって違う。

マクドナルドの競合は、ロッテリアではなく、コンビニのサンドウィッチかもしれない。病院の近くの見舞い向けの花屋の競合は、近所にある洋菓子店か書店かもしれない。

考えるべきことを考え、やるべき事を順番にやる。それが、最も近道でコストの掛からない方法だ。何かを思いついたら、一旦離れよう。そして、「考える」という取り組みをじっくり行う。

むやみやたらに怪物を作る必要などない。実際に怪物など存在しないのだから。

感性の時代

情報化社会とは何か?それによって、一体何がどう変わったのか?ビジネスという観点から考えるとわかりやすい。一昔前、大衆は与えられる情報を軸に行動した。だから、メーカーは、一方的に情報を扱ってきた。

この図式は、「結果がわかりやすい」ということ。大衆は、与えられる情報を自分なりに解釈しない。それが、ダメとかいう話ではなく、「出来なかった」異なる側面の情報を受け取り解釈する手段がなかった。

一方、情報化社会では情報はいくらでも取れる。店員よりも商品情報や背景に詳しい消費者はざらにいる。だから、メーカーが「こうだ」という情報を発しても、自分で情報を収集して、その真意を確かめる。

では、何が消費者の判断材料になっているのか。価格競争を軸とする消費財は別として、ヒット商品の裏には、必ずプロセスがある。それは、「感性」に訴えるプロセスだ。そのプロセスに人は共感する。

だから、人並み外れた結果を出している人の、表面だけを真似ようとしても同じ結果はでない。見えてこないプロセスが重要だ。判断力が優れていることの理由を訊かれ、「まず、机やデスクトップをきれいにすること」という。

でも、ほとんどの人は、「本当のことを教えてください」という。整理整頓は、実際真実だし、すべての基本だ。しかし、その答えまでのプロセスがあって初めて理解できる。

プロセスにあるのは、「感性」。すべてのカギはそこにあるといっても過言ではない。情報化社会とは、感性がカギとなる社会だ。

楽しいことばかりやる

「楽しくないことはやらない」楽しいことばかりをしようとすることに対し、多くの人は、罪悪感を感じてしまうかもしれない。また、楽しいことばかりを求めると、バチがあたってしまうのではないかとも感じる。しかし、それらは事実ではない。

誰にも、あなたの「楽しいこと」の評価はできない。それは、自分自身でしか判断できないからだ。楽しいことばかりやっていても、それが、人のためになっていれば充分。それは、決してスポーツ選手や、アーティストたちだけの特権ではない。

とはいっても、今すぐにイヤなことをやめる分けにはいかないかもしれない。ただ、ここで重要なことは、「楽しくないことはしない」と決めることだ。自分の意思に反して、物事に取り組めば、その「責任」は、自分の外に向いてしまう。

「だから、やりたくなかったのに」といった感情が沸き起こってきてしまう。楽しくないことはやらない。それが、自分のためであり、周囲のため。逆に、やるならば、とことん楽しむ。そうした割り切りが、どこかで必要だ。楽しいことは、何かを考えることが難しい。

それは、自分の感情に訊けばいい。そして、やりたくないことを書き出して、楽しくないことを明確にするのも方法だ。気の乗らないことは、やらない。それは、本能が指し示す黄色信号。何をどう変えれば、そこから抜け出せるか。それを考えれば、自然と答えはでる。

逆に、ワクワクするならば積極的に取り組む。それは、充実と成功の証。罪悪感も恐怖感も、それらは単なる観念。生活を充実させることを妨げる、こうした余計な観念は、さっさと脱ぎ捨ててしまおう。