準備、するしない

「準備する」ことは、何にも勝る。プロという領域に近い人ほど、この「準備」ということを怠ることをしない本来のチカラを発揮するために、万全な状態で望むために行う準備。何かをしようとするときの準備。

たとえば、準備とはそれだけのことではない。やり終わった後の片付け。いうなれば、これも次への準備だといえる。「準備する」ことは、とても大切なことだが、すべての場合において、完璧に準備する必要はない。

正しくいうならば、準備しない方がいい場合もある。たとえば、次への展開が読めない場合。思い込みで準備するくらいならばしない方がいい。

むしろ、出たとこ勝負で臨機応変に対処した方が、結果的に良い結果につながることは少なくない。この理由は、可能性の扉を閉じないからだ。「準備する」ということは、この方法や方向で行うことを宣言すること。

つまり、他の方法は選択しないということだ。次の展開が読めないような場合においては、いろいろな選択の幅があるに越したことはない。だから、準備しすぎないようにすることも重要だ。

そうした「心の準備」こそが、準備だともいえる。方向が決まっている場合の「準備」。何も見えていない場合の「心の準備」。やるべきは、やる。やらざるべきときは、やらない。

信頼と余裕を持って、完璧主義者になりすぎないようにしよう。

他人と関わる意味

普段の会話の中で、発せられる言葉。その言葉というものは、基本的に真実をありのままには表さない。正確には、発せられた言葉を解釈する人によって、その本意が、ゆがめられることが少なくない。

たとえば、予定通りの年休取得に対して、上司に「明日は休みなんでしょ?」と言われる。この言葉だけでは、彼の本意はわからない。しかし、解釈する側は、いろいろと妄想する。

「何か、責める意味合いがあるんではないか」「本当は、休んでほしくないのではないか」意味もなく罪悪感を感じ始めることもある。しかし、彼は単に、おみやげを渡したいだけかもしれない。

昼食に誘いたかっただけかもしれない。少し極端に思えるかもしれないが、こうしたことは、大小を含め日常茶飯事に起こる。まず、言える事は、物事は中立だということ。本当は、そこに意味などない。

罪悪感を感じるか素通りさせるかは、自分の解釈。つまり、彼の言葉の意味云々よりも、自分の解釈がどうかということに尽きる。その解釈の根幹にあるのは観念や先入観。

だから、他人の言動に自分の気持ちが揺らいだなら、まず、その気持ちの根幹を探ることだ。おそらく、その原因と考えられることは真実ではない。少なくとも、確定して事実ではないことがほとんどだ。

これが、一般的に不安の90%以上は、実際に起こらないと云われる所以といえるだろう。何かを感じたら、焦点を他人に合わせず、自分の観念や先入観に合わせてみること。観念や先入観は、いわゆる癖だ。

癖は、気付いた時点で癖ではなくなる。だから、それに気付けば、それはもはや癖ではない。そういった意味で、他人との関わりは、自分の癖を、癖で無くす機会と考えることもできる。

他人との関わりで、他人の評価や感情に意味はない。自分がなぜ、そう感じるのか。そこに、その事象の本当の意味がある。

意志ある人

世の中には、二種類の人がいるという。まず、自分の意思を持って行動する人。そして、もうひとつは、意思を持つ人に従う人。

意思を持たず従う人たちの特徴のひとつに、望まない環境にあることを周囲の責任にすることがある。「自分の立場がこうだったら、もっとこうなる」。

たとえ、同じ環境・職場にいたとしても、意思ある人たちは、こう考える。「今の自分は、ここで何が出来るだろうか」。そして、意思ある人が自分で道を切り拓くことに対して、自分も同じ立場になれば出来るのにと考える。

自分の置かれている状況の責任を、常に周囲の人や状況に向けている。しかし、そう考えている以上、自分が同じ状況になることは、まずないといえる。世の中には、原則がある。まず、成ること。そして、示すこと。

状況を待っていることは、状況に従うこと。それは、自分の人生を他人に預けることと同じ。意思を示せば、批難されたり嫌われる不安を感じる。しかし、その多くは、勘違いに過ぎない。

意思を持つ人を、人は一目置く。それが、正解であっても間違っていても。どうなるか判らない。だから、決められない。そう感じることを、ゼロにしよう。こうする、と決めた時から、状況は、そのように動き始めるのだから。

”本然”に従う

星の王子様で知られる、作家サン・テグジュペリ。彼の著作の中に、「人間の土地」という作品がある。航空便のパイロットだった、テグジュペリの実体験を元に書かれたものだ。

現代のように飛行機の性能はもちろん、航路の開拓も進んでいないような時代の話。彼は、生死と背中合わせの状況を目の当たりにする。何度も危険を冒しながら、それでも航路を開拓する人。

そして、アンデス山脈から奇跡の生還を果たした僚友。そして、彼は、ある夜間飛行で失敗し砂漠に不時着する。測量士と2人だけの、3日間の砂漠での遭難。

彼は、この本の中で、”本然”という言葉を使い、その人、ひとりひとりにある使命や生き方を語っている。その一見、不合理に見えるような選択であっても、それが、彼故の選択であれば、それは正しい。

その”本然”は、誰が与えてくれるものでもない。その人が生きる、その土地が与えてくれるもの。その”本然”に従い生きるということは、何者の評価も寄せ付けず生きるということだと。

その経験が、本当に必要なことを教えてくれる。「人間の土地」には、次のような言葉がある。

「また、経験はぼくらに教えてくれる、愛するということは、お互いの顔をみあうことではなくて、一緒に同じ方向を見ることだと。」

面白い見方

日々、楽しそうに暮らしている人は、そうではない人より、楽しいことが起こっているだろうか。この答は、否に違いない。日々の生活の中で、実際に面白いことが、次から次へと起こることは、まずないといっていい。

大切なことは、普通のことを「面白がる」心掛け。それが、たとえ一見、つまらない、むしろ、嫌なことと感じることでも、「面白がる」。つまり、楽しいことや面白いことは、探そうとしても、見つからないものなのだ。

それは、「探す」のではなく、「作り出す」。たとえば、マーケティングの概念に、レッドオーシャンとブルーオーシャンがある。レッドオーシャンは、競争が苛烈している市場。

ブルーオーシャンは、競争が少ない独占的な市場。この話が持ち出される場合でも、やはり、ブルーオーシャンを「探そう」とする傾向がある。これも、面白いことと、やはり同じ。それは、探しても見つからない。

自分で作り出さなければならないのだ。しかし、「作り出す」といっても身構える必要はない。面白がる視点で、物事を捉えて、実際に面白がることだ。

たとえ、サカナが思うように釣れないとしても、その釣れない中で、哲学者になる自分を客観的に面白がってみる。そうすると、不思議と、本当に面白くなってくる。つまらないと思えば、つまらない。面白いと思えば、面白い。

それは、表裏一体となっていて紙一重。誰かが、面白さを届けてくれることを待っていても、それが、届けられることはなく人生は終わる。それは、どんな状況にあったとしても言えること。

「面白き こともなき世を 面白く」長州藩士・高杉晋作、辞世の句。

うまくいく

たとえば、占いなどの結果で、今年はすべて物事がうまくいくとあったとする。それを、信じるかどうかは別として、ここでは、「うまくいく」という定義が重要になる。

つまり、永い目で見て「うまくいく」と、直近の出来事として、「うまくいく」は異なる。しかし、どちらも、結果としては「うまくいく」だ。そういった意味で、占いは外れない。

「塞翁が馬」という故事がある。物事の良し悪しは、その事象だけでは分からない。そのことを教えてくれる故事だ。その詳細は、ここでは割愛するが、一見、不幸に感じることも、実際は分からない。

乗り遅れた電車が事故を起こすこともある。リストラされた結果、天職につけることもある。今、実際に辛いことや苦しいことが、目の前で起きていたとしても、それは関係ない。

それが、本当に不幸だったかどうかは、実際は、死ぬ間際まで分からないということになる。そう考えれば、やっぱり、物事は、すべてうまくいっていると考えた方がいい。

不安になったり、心配したところで、それ自体には、本当は意味はない。すべては、総じてうまくいっている。塞翁のように、喜びすぎず悲しみすぎず。平常心こそが、最大の強さだといえる。

思い切り

新しいことを始めるとき、本当にうまくいくかどうか、不安になるときがある。そのとき、もし不安を感じるならば、それは、「何かを学ぶ機会」になる場合が多い。つまり、一般的にいう「失敗」の要素を含む。

しかし、もし不安以上に、思い切った感情があれば、多少の「失敗」以上に成功する可能性は高い。不安や、腑に落ちない感情は、的を得ている。思い切った行動に踏み込める自信。

どこかで、うまくいきそう気がするという根拠のない自信。それは、何よりも力強い味方になる。それを、人に説明しようとするとうまくいかない。そこに、明確な理由などないからだ。

しかし、人というのは不思議なもので、その人が出すエネルギーから成功を感じ取る。だから、理由や根拠が明確でなくても、思い切った感情があれば、他人を納得させることはできる。

人は、その人が発する言葉の意味以上に、無意識に、その人が出す雰囲気を重視しているという。その割合は、実に80%以上だという。思い切った行動に踏み切れるかどうか。

それは、つまり全責任を請け負うことができるかどうか。何があっても、言い訳の必要性すら感じない状態。それを感じたら、躊躇する必要はない。頭で理論的な答えが出るのを待つ必要もない。

誰かの承認を得る必要もない。ただ、行動に移せば、それだけでうまくいく。「思い切り」に、勇気は必要ない。それが、当然であるということに過ぎないのだ。

やりがい

新入社員は、「やりがい重視」。あるアンケートの結果では、仕事に対して求めることの上位にあるという。「やりがい」は、確かに、仕事の生産性を上げる上でも重要なこと。

しかし、そもそも、「やりがい」とは、「与えられるもの」ではないこと理解しなければならない。「会社や仕事、上司が与えてくれるもの」そういった理解をしている以上、やりがいなど感じない。

誰かが、それを自分に与えてくれると、外部に期待すればするほど、やりがいは失われる。「やりがい」だけではない。「希望」であっても同じことだ。

「希望のない社会」と表現されることがあるが、どんな状況であれ、希望は作り出せるもの。ビクトール・フランクルは、強制収容所にいながら、決して、希望を失うことはなかった。

そして生き延びた。どんな仕事でさえ、自分の取り組み方で、そこに価値を見出すことも、やりがいを感じることもできる。唯一、感じられない状況があるとしたら、他人や周囲との比較によって、基準を持っている場合だ。

外に求めているうちは、何も変わらない。そして、時間は、それでも過ぎていくのだ。若い頃に、自分に投資し、築いた遺産。人生の後半は、それを取り崩して生きていくものだ。

若い人には、近視眼的な損得勘定に流されず、理性や信念、ポリシーに忠実に生きて欲しい。それは、きっと数倍にもなって自分に返ってくる。

やりがい重視。そして、やりがいを生み出すのは自分。他人や周囲の基準ではなく、自分の中の基準に忠実であってほしい。

世界を変える

まだ、何も話してもいないのに、それを話したときの相手の反応を想像することがある。そして、さらに、その「想像した反応」に、自分の感情を揺さぶられ、動揺することもある。

その動揺は、時に怒りや自衛という形になり、いきなり、強い口調やケンカ腰の対応になったりする。相手にしてみれば、なぜそうなのか理解できない。そして、関係は、悪化してしまう。

そして、「想像した反応」とは違えど、やはり、同じような結果になったと感じる。こうしたことの発端は、どこにあるのか。当の本人は、そもそも「勝手に」相手の反応を、忖度したことから始まっていることに気付いていない。

このように、自分の感情や価値感で、相手を、「勝手に」評価してしまうことは少なくない。対人関係に、ストレスを感じる多くは、実際に、この類だとみていい。こうした相談を受けた場合の対応は簡単。

「それは事実か」と確認すればいい。おそらく、多くは「そうに違いない」といったレベル。間違った判断をするくらいなら、確認した方がいい。

もし、自分が何か対人関係にストレスを感じたら、自分自身に、事実かどうかを訊いて見ればいい。それが事実である根拠がなければ、その感情は、手放すに値するもの。持っていても、仕方ないものだ。

まさに、自分を取り巻く世界は、自分自身が作り出しているものに過ぎない。無用な感情から、勝手に判断することをやめる。それだけで、世界は変わるということになる。

事故

悲惨な事故というものは、起こる。何の罪もない人たちが、事故に巻き込まれ、ある日、突然、命を奪われてしまう。ある哲学では、すべての物事に意味があって、自分自身で、引き寄せていると云われる。

もし、本当にそうであるならば、そうした人たちは、自ら死を引き寄せたのだろか。この疑問に応えられる人は、おそらくいない。それでは、こうした事故を、どう解釈すればいいのか。

そのひとつの方法は、その輪の中に入り過ぎないということだ。つまり、「明日は我が身」と警戒しすぎないこと。注意することは必要でも、ストレスを感じてはいけない。

むしろ、こうした事故で、いつ命を落としても、おかしくないという日々を送っていると認識すること。そして、今日一日が、無事過ごせたことに感謝すること。だからこそ、今この瞬間を精一杯生きること。

その教えだと理解してみる。そう理解する以外には、救いはないのではないだろうか。そう理解したときに、自分の考えや行動はどう変わるか。周囲への影響に、何をもたらすか。物事は、常に中立だという。

良い面も悪い面も、同時に存在する。それを、どう感じるかは自分の選択。自分も、自分に係わる人たちも幸せになる選択。それを、積極的にしていきたいと思う。