命令改め

他人にやれと言われてやること。自分の意思に基づいてやること。たとえ同じことだとしても、その内容や生産性は、大きく異なる。部下や子供が、思い通りに動いてくれないことを、悲観的に訴える人がいる。

他人を思い通りに動かそうとしてはいけない。それは、ストレスとなる以外に何物でもない。自分が悲観的になる前にやるべきことがある。それが、「自意識に基づく行動を促すこと」。

子供であれ、大人であれ、意思というのがある。自分はこうしたいと思う感情は少なからずある。そのことに対してというわけではなく、他人に認められたい、価値ある人でありたいと願う。

その「意思」を刺激することが、自意識を芽生えさせる。そのために行うことは、「命令を質問に変えること」。「○○をしなさい」を改め、「○○は、どうしますか?」と変えてみる。

質問されれば、それに応えようとする。応える際に、自分の言葉にすれば責任感が生まれる。質問を繰り返していき、次々に、自分の言葉で語らせる。最後の一言は、これだ。

「それでは、お願いします」自分の言葉を、信頼された人は熱意を抱く。そして、出来たときには、褒める、感謝する。それが、自尊心となり自信となる。子供に勉強させたければ、無理強いは無駄。

自意識と自尊心を芽生えさせ、育てること。それが、何の教育にも勝る。すべての礎になるといっても過言ではない。そして、それは、自分自身に対しても同じ。

「○○をやらなければ」という義務感を、質問形式に変えて自問してみるのはどうだろう。その質問の答えの理由が、原動力となる。そして、高い生産性と結果を生み出してくれる。命令改め、質問。まずは、相手を信頼してみよう。そして、自分を信頼してみよう。

使命

「自分は、何かをするために存在する。この使命を全うすることが、人生だ」こうした大義を感じることは、すばらしいことだが、その使命が何なのかわからないことも少なくない。

だからといって、使命は探して見つかるものでも、誰かに示してもらうことでもない。釈迦は、肉体や精神を酷使する修行の中で、それでは、悟りは開けないと悟った。

つまり、釈迦は、こうした大義によることも、個人の欲望に終始することも是としなかった。大義もあろう、欲望もあろう、そして、役割も、またあるであろう。大義によるものにも役割がある。

欲望におぼれるものにも役割がある。どちらか一方が正しいということはない。要するに、偏りすぎると良くないということだ。何事も、バランスよく、そして中庸に。たとえば、自分の仕事に使命を感じているとする。

多くの人のために役立っていると思う。しかし、それ以前に自分が楽しいと感じなければ、意味がない。人は、行動に意味や理由をつけたがる。しかし、実際の理由は、「好きだから」、「面白いから」、「楽しいから」。

それでいいのだ。周囲は、それに大義名分をつけるかもしれない。でも、やっぱり本当の理由はやりたいから。それが、本当のこと。「使命は何なのか」、「自分は使命に生きているか」。

そんなことを考える必要などない。好きなことが使命となる。わくわくすることが使命となる。使命があるから人生が充実するのではない。充実した人生そのものが、使命となる。大義ばかりに目を向けていないか。

欲望ばかりに目をむけていないか。本当のことは、自分の心に聞けばいい。やりたいことを、本当は知っているはずだ。それが、使命。

ゼロからイチ

「ゼロから1にすることが、一番困難である」何もない状態から、何かを生み出すことは、想像以上の困難よ努力を要する場合がある。それは、自分の努力だけでは、どうにもならないこともある。

「新規お断り」という常套句がある。次に「まずは、実績を示してください」とくる。初めてだから、実績などない。でも、やらなければ実績はできない。とても、矛盾に満ちた状態だ。

こうした状態からの脱却がゼロを1にすることだ。ただし、この言葉を理解したとき、もうひとつのことも理解しなければならない。「イチからニにすることは、難しくない」ゼロから1に5年かかったとしたら、1から2にするには、2年はかからない。

そして、2を4にするには、1年以内で可能となる。これが描く曲線は、シグモイド曲線といい、あらゆる自然科学の状態に当てはめられるという。つまり、ゼロを1にすることができれば、1を2にすることに疲れてはいけない。

また、これまでと同じ苦労が待っていると、思い込んでしまう必要などまったくない。たしかに、成果を実感できるのは、3以上になってからかもしれない。1にまで辿り着ければ、2にはできる。2から3は、もっと簡単にできる。

ゼロを1にするということ。それは、ひとつの大きな関門を乗り越えた証。もうひと頑張り。

賢い生き方

「勉強をすると頭は賢くなる。だから、学校や塾の勉強は必要だ」この表現は、正しくもあり間違いでもある。「賢さ」というのは、本来「生き方」に活かされる。だから、算数も理科も、何かの形で生活に活かされる。

たとえば、算数の図形や代数の考え方。これは、ある基本的なルールに基づく、関連性を読み解くトレーニングとみることができる。つまり、学校のテストができることは、重要かもしれないが、それだけでは「賢く」は生きられない。

たとえば、いつも時間通りに進めず、急いでばかりで、よく事故や問題を起こす。今、急ぐことと事故の関連性や影響度を想像できず、「急がば回れ」ということが学習できないなら「賢く」はない。

その根本的な原因が無計画性や準備不足に起因していることに気付けなれば変わらない。これでは、いくら学校のテストの点数が良くても、生き方としては、決してうまいとはいえない。

学習や勉強の基本は、ルールや法則の記憶であることに間違いはない。ただし、記憶したルールを使って、関連性を想像し、探求することが本来の目的だ。それが、出来なければ、「浅はか」ということになる。

つまり、それは想像力の欠如となって現れる。物事を俯瞰的に見ることが出来れば、逐一動じることや周囲に影響されることは少なくなる。そして、基本的なルールを押さえておきつつ、それに従うことで、うまくいくことを学ぶことができる。

今、焦ってどうなる。今、急いでどうなる。それが、考え抜かれた結果ならばまだしも、つい先程与えられた「刺激」によるならば、なおさら。いわゆる「キレる」というのは、「刺激」に対して、ただ「反応」した結果だ。

その間に、「想像」や「応用」が欠如している現れ。「賢く生きる」ということは、決して「ズル賢く生きる」ことの代名詞ではない。世の中の基本的なルールを学び、関連性や影響を俯瞰的に見て行動できること。

つまり、いつ何時も「平常心」でいられることだ。1日の中で、どれだけ「平常心」でいられただろうか。どれだけ、「刺激」に対して「反応」せずにいられただろうか。

「生き方のテスト」などは、受けなくてもわかる。身になる学習をしながら、賢く生きていこう。

達人

将来の理想像を具体的に思い描く。今の自分の状況を考えてみたり、そのために必要となる資源を思い浮かべてみるどこかで、無理なんじゃないかという気持ちが、沸き起こってきて、途中で辞めてしまいたくなる。

理想の将来を思い描くことは、とても勇気がいること。そこまでの道のりが思い描けなかったり、その方法が思いつかないことを理由に諦めてしまう。しかし、実際には人生はダイナミックだ。

想像してもいなかったことばかりが起きる。逆に、思い通りのことの方が少ないくらいだ。今、すべての道のりが描けるかどうかは関係ない。どうせ描けたところで、そうなる保障など微塵もない。

夢の最終形を描けたら、後はおまかせ。ただ、それが必ず訪れることとして捉えておく。毎日、会社に行くことと同じように、その予定は、当たり前のように訪れる。

そして、今、目の前に起こることは、すべて、そのために必要な準備なのだと考える。人生をうまく渡っているように見える人も、その本当の姿は、水鳥の泳ぐ姿に似ている。

好きなことを思い通りにしているように見えたとしても、水面下では、一生懸命に水をかいている。思いがけないことは、良い方向で起こる。そう信じて、泳ぎ続ける覚悟を持つことが必要だろう。

優雅に泳ぐ姿は、決して苦痛を隠している姿ではない。むしろ、それを楽しんでいるのかもしれない。朝目覚めることを心配して、眠る人はいないように、夢は予定であり、その準備の過程が日々。人生を、思い通りに泳ぐ人というのは、そういう人のことをいうのだろう。

真の花

世阿弥の代表的な著作「風姿花伝」に、「花」というものについて、語られているという。「時分の花」と「真の花」。演者は、まず「時分の花」を咲かせる。やがて、「時分の花」は、衰え失われていく。

演者は、そうした「花」を失わないように、精進することで「真の花」を咲かせる必要がある。「真の花」を咲かせたものは、それを失うことはない。つまり、一時的な人気や流行で咲く「花」には限りがある。

だから、精進して「真の花」を咲かせようということ。「脱皮」「成長」「卒業」。こうした言葉は、単にイベントとするのではなく、真の花を咲かせるための、精進と読みたい。

この考え方は、芸術分野だけではなく、ビジネスやスポーツ、夫婦関係などにも応用できる。世阿弥曰く、「真の花」は、衰えることも、失われることもない。「真の花」を咲かせた人は、本当に強い。

そこには、マネのできない奥深さや絆がある。派手に着飾ったり、豪勢なことばかりが花ではない。「人生に花を咲かせる」ということは、その人の「真の花」を咲かせるということではないだろうか。精進せねばならない。

押される前に引く

押される前に引いてみる。何かをやらなければならなくなってからやる。本当は、「ねばならない」ことなどないはず。決断や選択を先延ばしにすることで、選択の幅が狭まり、そして「押される」。

「ねばならない」のか、「したいのか」。この表現の違いが表すことは大きい。「○○しないといけないので」自分の意思ではなく、他人の意思で動く。この言い回しは、このことを表している。

したくないことならば、やらななければいいのに。本当はしたいことなら、「します」と表現すればいい。ほんの小さなことかもしれないが、この表現の違いの「クセ」がもたらす弊害は大きい。

この表現の連続は、状況を他人まかせにする。そして、ついに他人に背中を押されるまでになる。その「やらされ感」が、大きな成果を生むことはない。

「やらなければならない」という表現を、よく使っているならば、それは押され気味。押される前に引く。自分の意思で、引いてみること。もしくは、NODeal(取引しない)を選択する。

ときには、じっくり考えたいこともあるだろう。そういったときは、無関心になる。他人のどんな「押し」にも反応しないことだ。押すも引くも自分次第。そして、すべては自分の責任の中。

他人に押されてする失敗は、見苦しい言い訳の元になることも少なくない。自分の責任の中で失敗する方が意味がある。何にも縛られない「自由」とは、こういった状態が基本になるのだと思う。

管理をやめる

業務効率化における「管理」の話。「管理」をやめるという取り組みの中に、「競争をやめる」ということがある。営業成績が伸びないときなどに、ありがちな対応が、ノルマと競争。

競争の仕組みを入れることで、成果の向上が図れるというのは幻想だ。たしかに、1+1=1.2であったことが、1+1=1.5にはなるかもしれない。しかし、1+1=3になることはまずない。

本来、組織やチームで動く意味や価値というのは、1+1を、2以上にすることができるところにある。競争というのは、1以上のチカラを持った人の、本来のチカラを引き出すことには使える。

しかし、そうでない人にとっては、1以上のチカラをだすきっかけにはなりにくい。なぜなら、組織やチーム内の競争というのは、となりの人や同僚を「敵」と認識する要因になりえるから。

周囲が敵だらけと言う状況では、知識や方法の共有化やシナジー効果は望めない。本来、会社にとっていい情報や方法を、会社全体のために共有しようという意識は生まれない。

つまり、0.7の人を1以上にするための方法は、出来る人の中に隠されたままになってしまう。そして、人それぞれに得手不得手があることを前提にした、役割の分担ということが出来なくなってしまう。

何でもこなせる優秀な人材など、そう多くはいない。それを嘆くのは、管理者としての能力不足を露呈するようなもの。チームがチームである理由は、それぞれが補い合うことに、本来の意義がある。

競争することをやめ、協力しあえる環境を作る。それが、長期的な視点での「価値ある組織」を作る。「競争」は、カンフル剤。副作用としては、組織内の軋轢。軋轢の生じた組織の建て直しには、その倍以上の時間と労力を必要とする。

それを理解した上で使うべき方法だ。欲しいと思えば、手が自然と伸びるように、ひとつの目標に、組織全体が自然と向かっていける。組織が身体全体のようであるように、そういったレベルでの情報と意識共有を目指す。「管理をやめる」とは、そういうことだ。

「道」

柔道、剣道、弓道、合気道・・・。日本には、古来から「道」という概念がある。この「道」には、技を極める以前に、それを極めるためが故の資質が問われる。

それらは、言葉では説明しにくいが、「礼」、「義」、「仁」などで表現されてきた。この日本人の精神こそ世界に誇れるもので、武士道など、世界中の人を魅了してきた。

たとえば、日本人が、この「道」の精神を外れた、言動や行動を繰り返すとどうだろう。「道」よりも、自己利益を優先させ、自らの想いを押し殺してきたとしたら。

それは、個性を失うことであり、そして、「強さ」を失うことになるだろう。誰も見ていなければゴミも捨てる。見知らぬ地への旅の恥はかき捨て。「恥」や「畏れ」を忘れた言動は、明らかに「道」を外れた言動といえる。

日本に何かが失われつつあるとするならば、まさに、この「道」の精神ではないだろうか。人間の弱みに付け込む甘い誘惑、本当にしたいことと、常識に囚われた迷い。善悪よりも、損得の感情が上回った選択。

この「迷い」を断ち切るのは、自分自身の中心にある「道」しかない。強い人間とは、腕っ節が強いものではない。この自分自身の中心にある「道」を持っているか。

自分には、「道」があるか。あるとするならば、どんな「道」だろうか。それを今日、思いめぐらせてみる。

期待に応える

欲しくないものは、タダでもゴミ。それを定義するのはプロセスではなく、受け取る人の状態による。たとえば、スパムメールがスパムである理由。

その登録や配信までの過程がどうであれ、その人にとって不要であれば、スパム。必要である人に必要なものを届ける。すべてにおいて、この原則を忘れてはいけない。

「欲しければ、まず与えることをしなさい」。この表現の解釈の仕方を間違えると、その真意を外した行動を取ることになる。与えるものは、感謝されることが基本。

加えて、「これだけ与えたのに」と、見返りがないことを妬むなどは持っての外。意義のある奉仕に対しては、全く違う方面や方向から返ってくる場合も多い。それも、何十倍にもなって返ってくる。

人は誰でも、周囲や環境から何かしら期待されているもの。だから、与えることの基本は、始めに期待されることに応えることだ。期待されていること知り、感じ取ること。

人は感情の生き物であって、感情を無視すれば独りよがりになりやすい。周囲から期待されていることは、今の自分で必ず成しえることばかり。感謝されることは、想像以上に難しくない。

肩肘張らず、期待に応える余裕を持とう。そして、与え感謝される充足感を感じよう。経済学者のウンチクよりも、それが、きっと世の中を明るくする一歩になる。