「現実的」

子供が、自分の将来像を描くとき、そこに、2つの傾向があるように感じる。ひとつは、今現在の価値観の延長にあるもの。具体的には、親の価値観に基づくものになる。

たとえば、いい大学にいって、いい会社に就職する。スポーツ選手になる夢もあるだろうが、世界で活躍する選手は、難しいのでコーチに納まってみる。

しかし、それらは、一見現実的で見えて、極めて非現実的な将来像だといえる。今の親の世代が小学生の頃、携帯電話やスマホ、クラウドの世界を想像できただろうか。

ツイッターやフェイスブックなどのSNSによって、国の在り方が変わることが想像できただろうか。それは、今の価値観で将来を推し量ることの儚さを、まざまざと見せ付けてくれているといっていい。

もう一方の夢の描き方は、根拠のない純粋に想いからくる将来像。カードゲームで日本一の選手になりたい。面白い漫画が描ける漫画家になりたい。そうなったとしてどうなる。それは、意味があることなのか。

大人は、そう考えてしまいがちだ。しかし、現在から考える未来なんて、何を考えてみたところで意味などないのだ。だったら、好きなことやりたいことを精一杯、目指しているほうが、幸せにぶつかる可能性は高い。

大人になればなるほど、「現実的」に考えることを当たり前にしてしまう。しかし、その「現実的」思考ですら、本当は、現実的ではないということ。

過去を振り返ってみてどうだろうか。一体、自分の思いどおりにことが進んだことは、どれくらいあっただろうか。そのことが、まさにそれを証明している。

ケネディ大統領はいった。「行動計画には、リスクや費用が含まれる」。「しかし、長期的な視点では、何もしない場合よりも
行動を起こすほうが、リスクや費用は低くなる」。

行動することこそが、最も現実的なのだ。

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