鐘という存在

ある画家は、対象物を描くとき、そのものを描くのではなく周囲を描けといった。これは、実に真理を表している。モノというのは、それ自体では形は見えてこない。周囲との関係の中で、見えてくる部分が必ずある。

それは、物質だけとは限らない。自分という人が、どういう人間か。それは、周囲との関係で見えてくる。他人との会話の中で感じることがある。行動を共にすることで見えることがある。

人格というのは、鐘のようなもの。打ってみて、その響きを聞いてこそ、その鐘のもつ魅力というものはわかる。鐘は、自分ひとりでは響くことはない。

つまり、打って響くという状況というのは、他人の反応というバチがあってこそ。その響きが多岐に渡れば渡るほど、自分という存在が、明確に自覚されていく。人間が、社会性を必要とする理由だろう。

自暴自棄になって犯す犯罪は、自分の存在を知らしめる行為そのもの。自分という鐘の打ち方を間違ってしまう。そして、ゆがんだ響きの中で自己を確認する。人というのは、鐘のようなもの。

周囲があって、はじめて自分がわかる。これは、人は決してひとりでは生きられないという証でもあるのだろう。

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