「自分は、何かをするために存在する。この使命を全うすることが、人生だ」こうした大義を感じることは、すばらしいことだが、その使命が何なのかわからないことも少なくない。
だからといって、使命は探して見つかるものでも、誰かに示してもらうことでもない。釈迦は、肉体や精神を酷使する修行の中で、それでは、悟りは開けないと悟った。
つまり、釈迦は、こうした大義によることも、個人の欲望に終始することも是としなかった。大義もあろう、欲望もあろう、そして、役割も、またあるであろう。大義によるものにも役割がある。
欲望におぼれるものにも役割がある。どちらか一方が正しいということはない。要するに、偏りすぎると良くないということだ。何事も、バランスよく、そして中庸に。たとえば、自分の仕事に使命を感じているとする。
多くの人のために役立っていると思う。しかし、それ以前に自分が楽しいと感じなければ、意味がない。人は、行動に意味や理由をつけたがる。しかし、実際の理由は、「好きだから」、「面白いから」、「楽しいから」。
それでいいのだ。周囲は、それに大義名分をつけるかもしれない。でも、やっぱり本当の理由はやりたいから。それが、本当のこと。「使命は何なのか」、「自分は使命に生きているか」。
そんなことを考える必要などない。好きなことが使命となる。わくわくすることが使命となる。使命があるから人生が充実するのではない。充実した人生そのものが、使命となる。大義ばかりに目を向けていないか。
欲望ばかりに目をむけていないか。本当のことは、自分の心に聞けばいい。やりたいことを、本当は知っているはずだ。それが、使命。