「勉強をすると頭は賢くなる。だから、学校や塾の勉強は必要だ」この表現は、正しくもあり間違いでもある。「賢さ」というのは、本来「生き方」に活かされる。だから、算数も理科も、何かの形で生活に活かされる。
たとえば、算数の図形や代数の考え方。これは、ある基本的なルールに基づく、関連性を読み解くトレーニングとみることができる。つまり、学校のテストができることは、重要かもしれないが、それだけでは「賢く」は生きられない。
たとえば、いつも時間通りに進めず、急いでばかりで、よく事故や問題を起こす。今、急ぐことと事故の関連性や影響度を想像できず、「急がば回れ」ということが学習できないなら「賢く」はない。
その根本的な原因が無計画性や準備不足に起因していることに気付けなれば変わらない。これでは、いくら学校のテストの点数が良くても、生き方としては、決してうまいとはいえない。
学習や勉強の基本は、ルールや法則の記憶であることに間違いはない。ただし、記憶したルールを使って、関連性を想像し、探求することが本来の目的だ。それが、出来なければ、「浅はか」ということになる。
つまり、それは想像力の欠如となって現れる。物事を俯瞰的に見ることが出来れば、逐一動じることや周囲に影響されることは少なくなる。そして、基本的なルールを押さえておきつつ、それに従うことで、うまくいくことを学ぶことができる。
今、焦ってどうなる。今、急いでどうなる。それが、考え抜かれた結果ならばまだしも、つい先程与えられた「刺激」によるならば、なおさら。いわゆる「キレる」というのは、「刺激」に対して、ただ「反応」した結果だ。
その間に、「想像」や「応用」が欠如している現れ。「賢く生きる」ということは、決して「ズル賢く生きる」ことの代名詞ではない。世の中の基本的なルールを学び、関連性や影響を俯瞰的に見て行動できること。
つまり、いつ何時も「平常心」でいられることだ。1日の中で、どれだけ「平常心」でいられただろうか。どれだけ、「刺激」に対して「反応」せずにいられただろうか。
「生き方のテスト」などは、受けなくてもわかる。身になる学習をしながら、賢く生きていこう。