普段の会話の中で、発せられる言葉。その言葉というものは、基本的に真実をありのままには表さない。正確には、発せられた言葉を解釈する人によって、その本意が、ゆがめられることが少なくない。
たとえば、予定通りの年休取得に対して、上司に「明日は休みなんでしょ?」と言われる。この言葉だけでは、彼の本意はわからない。しかし、解釈する側は、いろいろと妄想する。
「何か、責める意味合いがあるんではないか」「本当は、休んでほしくないのではないか」意味もなく罪悪感を感じ始めることもある。しかし、彼は単に、おみやげを渡したいだけかもしれない。
昼食に誘いたかっただけかもしれない。少し極端に思えるかもしれないが、こうしたことは、大小を含め日常茶飯事に起こる。まず、言える事は、物事は中立だということ。本当は、そこに意味などない。
罪悪感を感じるか素通りさせるかは、自分の解釈。つまり、彼の言葉の意味云々よりも、自分の解釈がどうかということに尽きる。その解釈の根幹にあるのは観念や先入観。
だから、他人の言動に自分の気持ちが揺らいだなら、まず、その気持ちの根幹を探ることだ。おそらく、その原因と考えられることは真実ではない。少なくとも、確定して事実ではないことがほとんどだ。
これが、一般的に不安の90%以上は、実際に起こらないと云われる所以といえるだろう。何かを感じたら、焦点を他人に合わせず、自分の観念や先入観に合わせてみること。観念や先入観は、いわゆる癖だ。
癖は、気付いた時点で癖ではなくなる。だから、それに気付けば、それはもはや癖ではない。そういった意味で、他人との関わりは、自分の癖を、癖で無くす機会と考えることもできる。
他人との関わりで、他人の評価や感情に意味はない。自分がなぜ、そう感じるのか。そこに、その事象の本当の意味がある。
