「孤独は、神に与えられた時間」人は、孤独を感じたときに、初めて神の存在を噛み締めるという。枝葉末節な出来事に奔走している日常で、神様の存在を感じることなど、ほとんどない。
しかし、砂漠でひとり彷徨っていたとしたらどうだろう。神様にお願いしたくなる感情が沸き起こってくる。孤独を痛切に感じ始めたとき、人は、神や自分の存在について思い巡らせる。
その思い巡らせる時間は、「神に与えられた時間」。「そんな時間は、ムダだ」科学者は、そう言うかもしれない。しかし、科学は、「どのように(HOW)」という疑問には、応えてくれるが、「なぜ(WHY)」という質問には応えてくれない。
「人間や宇宙が、どのように存在するのか」。科学は、その質問に応える準備は十分にある。しかし、「なぜ、人間や宇宙が存在するのか」。この質問に応えるための準備は持ち合わせていない。
この「なぜ」に応えるのは、科学の役割ではなく、哲学の役割。「なぜ」という質問に応えるには、人類という枠組みを超えて「感じとる」以外にない。その感性を磨く部分が、「神に与えられた時間」。
社会や学校や会社、そして科学者は、その必要性も重要性も、教えてくれることはない。それを、否がおうにも感じさせてくれるのが、「孤独」という状況であり、その時間だ。経営者ともなれば、孤独はつきもの。
しかし、孤独を感じることに後ろめたさは必要ない。それは、神に与えられた時間であり、森羅万象を「感じ取れ」というサインだ。
その時間は、小さなことに拘っていた自分や、いらぬ心配や不安を感じていたことを気付かせてくれる。孤独を感じることは、決して悪いことではない。人生や生き方に深みを与えてくれる。孤独、上等。
